昭和30年代から40年代。

浜松の小学校は1学年5~6クラスあり、1クラス50人いた。

魚屋、肉屋、蕎麦屋、文房具屋、新聞・牛乳店、工務店・大工、設備屋、医者・歯医者、サラリーマン、公務員、

自動車・楽器・繊維の工場で働く人々、みんないた。

地元出身者、東北などから移ってきた人たち、〝部落〟と称される人たち、朝鮮人、みんないた。

いろいろだった。いまよりずっと多様性社会だった。

差別意識は大人によって子供に植えつけられた。

子供たちにそんな気持ちはこれっぽっちもなく、毎日陽が暮れるまで誰彼関係なく全力で遊んでいた。

とくに運動会はたいへんだった。赤白別、学年別、学級別、そして町別の、競技になっていた。

家族総出で、茣蓙を敷いて、弁当広げて、大応援だった。友達の鉄工所のオヤジは「ヤーサや」と叫び酒もあおっていた。

祭りが盛んな地域なので、法被を着て参加するやつもたくさんいて、あちこちで練りをしていた。

 

それから十年もしないうちだった。わたしが東京に移ったのは。

実際に通ったわけではないのだが東京の小中学校の規模は小さかった。

同類の人たちが集まって街がつくられているようだった。大都会なのに、画一的にみえた。

それでも。小学校にはもっとたくさん人がいた。

 

いま。東京の街を歩いていると小学校の増築が目につく。

「育成室」という校舎を新たにつくっているのだ。

授業が終わってからも児童が過ごせる場所だ。

 

文京区の小学校は、どこも1クラスあたりの児童数かもしくは学級数を増やしている。

入学してくる児童が増えているのだ。

子供の数の減少が予測され、一時期、学級数を減らしたり、小学校の合併が進んだのだが、

いまはそれが逆転してしまっている。

 

東京都の公立小中学校の児童・生徒数は令和4年をピークに減少に転じている。

人口減少日本にあって東京だけ人口集中で人の数が増えているのだが、

少子化の勢いがそれを超えたことになる。

その中で、令和十年までみても自動・生徒数が増える街がある。

文京区と中央区だ。

令和5年にたいし令和10年の児童生徒数増減率予測は

文京区が1.8%増、中央区が1.1%増。唯一。

あとの区・市はみなマイナスだ。

中央区はタワマン人気がある。

文京区は…。

たとえば屈指の東大進学校の誠之小学校は令和7年、1年生のクラスが2から4に倍増し、

その増えた分は、中国人だ。

 

もしかすると、これからは、多様性のスケールが違ってくるのかもしれない。