桜をみるとホームレスたちを思い浮かべる。

うららかな春とか、新たな人生のスタートとか、そんなことよりも。

 

縁あって、上野不忍池の畔に住んでいた時がある。およそ30年前。

当時、池の脇、園内のトイレのまわりには、

ダンボール箱やブルーシートで覆われたホームレスの小屋がたくさんあった。

いまはもうない。

ホームレスどころか、外国人ばかりが目に付く。

不忍池の傍らの丘の上も同じ光景だ。国立博物館前も30年前と比べるとキレイなものだ。

上野の場合、「山狩り」と呼ばれる当局のホームレス一掃活動が重ねられ、

現在に至っている。

 

ホームレスの小屋がズラリと並んでいた隅田川沿いはどうなっているだろう。

不忍池の南を走る春日通りをまっすぐ東に向かう。

隅田川にかかる厩橋から上流をのぞむ。

このあたりは桜の木は少ないのだが、

水の畔からホームレスは消えている。

「山狩り」は東京全体で進められたようだ。

では、彼らは、どこに行ったのか。

徘徊歩きをつづけるわたしはすこし知っている。

たくさんかかる橋の下の奥だったり、もっと上流に行くと、

彼らの姿をみることはできる。

街のあちこちにある公園、公共の図書館、にもチラホラと見受けられる。

それでも、あれだけあふれていたことを考えると少なすぎる。

 

東野圭吾の加賀恭一郎やガリレオなどのシリーズを読むと、

このあたりのホームレスは、物語に欠かせない存在になっている。

みんな「訳あり」の人たちだからだろう。

 

「失われた30年」にはいる直前、

世界で二番目に裕福な国だった日本の頃、

水の畔はホームレスでいっぱいだった。

それが衰退期に入った挙句の果ての「現在」、

「訳あり」の彼らは姿を隠した。

皮肉にも。

代わりに、外国人たちで溢れている。

 

面白い。

これからも、街を、見続けよう、立ち止まり続けよう。