本郷弓町。

新選組の斎藤一が住んでいたところのすぐ南には田沼意次もいた。

〝暴れん坊将軍〟徳川吉宗が八代将軍に就く際、その家来の一人として紀州から出てきた。

吉宗と、そのあとの将軍にもその才覚が認められ幕府の実権を握った。

ここが田沼意次が住んでいた場所。

樹齢を重ねた大きな楠木が残っていて、地元の人は「楠木邸」と呼ぶ。

田沼は出世し、のちに神田橋の脇、現大手町に、引っ越してゆく。

 

この田沼意次への評価が興味深い。真っ二つに割れているのだ。

倹約か 売りを増やせば 利は上がる

 

彼が幕府の中枢にいたとき、

富士山が噴火し、南海トラフ大地震が起こり、大飢饉が続いた。

彼は、徳川吉宗がはじめた倹約、増税政策を引き継ぐとともに、

商人の事業制限を緩め、拡大させ、そこに税を課し、米の代わりの幕府収入を増やした。

北海道の調査を進め、開拓、ロシア、中国などとの貿易を進めようとした。

大飢饉対策として、減税もやった。

それまで誰もやらなかった政策を次々と実行した。

日本人、徳川幕府、を元気にすることに必死だったのだ。

しかし、商機拡大、規制緩和は、金権行政にもつながった。

田沼の後をとった松平定信などの政敵たちは、田沼政治を世相を乱したとして酷評した。

現在は、田沼政治を、日本を活性化させたと評価する人たちも出てきている。

いちばん身近なところでは池波正太郎。

「剣客商売」「鬼平犯科帳」では人間が練れた大人の政治家として描かれている。

初回が史上最低の視聴率となったNHK大河ドラマ「べらぼう」でも、

金権政治のリーダーというより、古い因習に固執する保守層とたたかう変革者として

描こうとしている。

田沼時代には、蔦屋重三郎だけでなく、

平賀源内、杉田玄白、前野良沢、滝沢馬琴、葛飾北斎

などなどの変革者たちが次々とあらわれた時代でもあった。

 

わたしは、100人以上の市場をリードする人たちに、直接・間接に、

やりたいことを聞いたことがある。

「キーマン課題ヒヤリング」と呼んでいた。

彼らが言っているたくさんの「課題」を、樹状図(ロジックツリー)として1枚に整理した。

最終目的は「利を上げる(利益確保)」であり、

その大手段は2つ。「売りを拡大する(需要創造)」と「倹約する(コスト削減)」だった。

 

田沼意次は、それをすべてやったのだと思う。やらざるおえなかったのだと思う

すくなくとも、単なる悪役ではなかったことは確かだ。

 

ナポレオンが名言を残している。

歴史とは 合意の上の 作り話