すこしだが、猛暑が和らいだ。
2024年9月5日。
1か月休んでいた東京徘徊を再開した。
橋巡りのつづきから行こう。
今回から日本橋川だ。
水道橋駅と飯田橋駅の中間にある神田川が日本橋川と分かれている地点から、
隅田川に注ぐまでをたどる。
日陰にて 歴史を刻む 都心橋
「三崎橋」「新三崎橋」が、神田川から分岐した日本橋川の最初の橋だ。
2つの橋は、中央線・総武線の高架を挟んで掛けられている。
これは「新三崎橋」。
1926年11月24日に架けられたコンクリート橋だ。
平日の10時過ぎ。人通りはそれほど多くない。
脇にはダイワハウスの本社やエドモントホテルが建っている。
通勤時間はもっと混んでいるのだろう。
日本橋川の多くは、首都高の下を流れている。なので暗く景観が損なわれている。
道路網を東京オリンピックに間に合わせるにはこの方法しかなかったのか...。
いずれこの高架道路は地下に移すと聞いている。
すこし歩くと「新川橋」に着く。
1927年7月13日に架けられた鋼橋だ。
つぎに「堀留橋」が出てくる。
17世紀初め、徳川家康は、江戸の物流・水道網を整備するため
本郷台地を切り拓いて現在の神田川をつくった。
それまでの神田川は、この日本橋川のことだった。
日本橋川は神田川完成とともに、この「堀留橋」のところまで埋め立てられた。
だから「堀留」の名がついている
日本橋川と神田川が再度つながるのは20世紀のはじめ、1903年のことだ。
この300年間、日本橋川は、川ではなく、
海から物資をここ「堀留」まで運んでくる運河として機能した。
そして、「堀留橋」の南には、「俎(まないた)橋」がある。
靖国通りが通る大きな橋だ。
ここから九段の坂をのぼると、右に靖国神社、左に北の丸公園・武道館、
そして千鳥ヶ淵へとつながる。
「俎(まないた)」。変わった名前だ。
海から日本橋川をのぼって、この地で農産物、海産物が荷揚され、加工されたから...
また、江戸時代にかかっていたこの橋はまな板のようだったから...
と言われている。
首都高が地下に潜るのはいつになるのだろう。
高架橋がなければ、東京の都心で、長い歴史の物語をもつこれらの橋橋は、
もっともっと人を惹きつけたことだろう。
常に陰に隠れ、ひっそりとたたずむ橋橋をみていると、
残念な気がしてならない。