「橋」の話に戻る。
今回は、江戸城の外濠、神田川の「飯田橋」だ。
ここで神田川の流れは、四ッ谷に向かう、まさに江戸城外濠と、
隅田川に向かう神田川本流へと分かれる。
ちなみに、神田川は、この飯田橋と水道橋の間で日本橋川へとさらに分かれている。
飯田橋 江戸山の手の 物流基地
これが現在の飯田橋だ。
歩道橋の下にみえる2本の橋がそうだ。わかりにくいが。
右手に行くと四ッ谷方面、左手に行くと水道橋・お茶の水方面となる。
これはその歩道橋の上から水道橋・お茶の水へとつづく神田川を見降ろしたものだ。
これは飯田橋の脇にあるJR飯田橋駅の東口。
この飯田橋駅の上には、わたしが東京に出てきた1970年代からある駅ビルがある。
集合住宅とショッピンクセンター「RAMLA」で構成される古い高層ビルだ。
JR飯田橋駅の西口は新しい。これだ。
この西口の脇にはまだ江戸城の外濠城壁が残っている。
飯田橋西口の前にはおおきな高層ビルが建っているが、
奥には法政大学のタワーもみえる。
ここから目を西に向けると、賑やかな商店街「神楽坂」の入り口がある。
1590年、飯田喜兵衛という人が徳川家康をこのあたりを案内し、
家康自身がここを「飯田町」と名付けた。
1659年、神田川が隅田川までの江戸城外濠として新たに開削され、
海からの物資が、隅田川、神田川(外濠)を経て、この飯田橋まで運ばれるようになった。
明治時代にはいり、1881年、外濠を跨ぐ橋が架けられ、
その橋が「飯田橋」と名付けられた。
1928年、いまのJR飯田橋駅が出来、
以降、駅周辺の地域名として「飯田橋」の通り名が浸透した。
1659年の神田川開削以降、飯田橋には海からたくさんの物資が運ばれてきた。
米、海産物、材木などが毎日到着し、江戸の山の手一帯の一大物流基地だった。
船着場として水際にたくさんの荷揚場がつくられ、「牛込揚場」と呼ばれた。
その名残として「軽子坂」という坂が神楽坂と並行して残っている。
「軽子」とは「揚場」に着く物資を運ぶ人たちのことだ。
RAMLAの脇にはその記念碑がある。
揚場には荷受業者が軒を連ねている。当時は賑わっていたことだろう。