きょうは、「本郷坂の上の雲」シリーズの3回目、「駿河台の坂」だ。

ちなみに、1回目は「伝通院の坂」、2回目は「湯島の坂」だった。

 

むかし。駿河台は本郷台とひとつの台地としてつながっていた。

独眼竜政宗が徳川秀忠の命令で、大規模な掘削工事をおこない、神田川を飯田橋から隅田川まで通したのだ。

台地を削って削って深い深い谷の神田川をつくったのだ。

その神田川があったからこそ100万人都市江戸を支える水道網ができたのだ。

政宗はどんな気持ちで引き受けたのだろう。

これは、きょう、東京医科歯科大と順天堂の境目あたりから濠を写した写真。いま見ても、深い谷だ。

 

どの坂から行くか。

湯島天神と神田明神の日課の参拝をして、向かったので、聖橋を渡ったところにある「淡路坂」からにする。

これは坂上から撮ったもの。右には、高層オフィスビルのsora cityがある。

これは坂の途中から見上げて撮ったもの。左にsora city、むこうに東京医科歯科大、その奥に順天堂がみえる。

坂の上に鈴木淡路守の屋敷があったことからその名前がついたようです。

左のsora cityの南側には「幽霊坂」がある。これだ。

由来は不明だ。

 

坂をのぼって、駿河台に出よう。

徳川家康は、江戸幕府を開くと、息子の秀忠に将軍職を譲り、静岡(駿河)に引っ込んだ。

たくさんの家康の家臣たちが一緒に駿河に移り住んだ。

家康が駿河で亡くなると、こんどはそのたくさんの家臣たちが駿河から江戸に帰ってきた。

「駿河台」は、そんな家臣たちのために新たにつくったサムライの住宅街だった。

 

明大通りに出て、すこし降り、「吉郎坂」からのぼる。

明治大学総長を務めた商学博士佐々木吉郎氏にちなむそうだ。

坂上には「山の上ホテル」がみえる。

かみさんとわたし。ここで結婚式をした。1985年6月。

いまみても、こじんまりした洋風ホテルという感じで、地味だがいいホテルだ。

坂の両側とも、明治大学だ。「山の上ホテル」は明治大学に囲まれるように建っている。

これは、坂の南側の明治大学本館。当時は、年季の入ったくすんだ焦げ茶色の建物だった。いまはこれだ。

わたしは、1978年、浜松の高校を卒業し、東京に出てきた。

何も勉強していなかったわたしは、予想通り、志望大学には入れず、浪人することにした。

浪人して9月になり、模試を受けた。「日本大学合格率4%」と記されていた。

このときの通達が、自分の生き方を決めた、といまでも思っている。

「わたしはアタマがよくない」...。

わたしは、「試験に出る英単語」「試験に出る英熟語」「山川出版日本史」を丸暗記した。

私大文系は3教科受験なので、あと国語は、でたとこ勝負で、英語と日本史は、これでなんとか突破しようとした。

「山を張った」のだ。で、「山が当たった」。

ここに写っている「白雲なびく駿河台」(校歌)の明治大学に合格した。

5カ月前に「日本大学合格率4%」だった男が。

 

山を張り 白雲なびく 駿河台

 

この「吉郎坂」一帯には、山を張ってはいった「明治大学」、結婚式を挙げた「山の上ホテル」だけでなく、

わたしの子供が生まれた「浜田病院」もある。当時は、旧い建物だったが、いまはご覧の通り。

ついでに、これも。よく行った喫茶店「LEMON」だ。

画材屋さんだけあって、おしゃれ。山を張った明大生には合わないが。

 

山の上ホテルから西側に降りる。

「錦華坂」がある。

よこには「漱石 錦華に学ぶ」の碑があった「錦華公園」。

古い公園だったが、ついに全面改装のようで、工事中だ。

坂を降り切ったところで「富士見坂」に出る。

東京には富士見坂がいくつあるのだろう。千代田区だけで3つあるという。

全国でみたらもう無数なのではないか。

日本人は富士山が見えると嬉しくなってしまうのだろう。

 

きょうは本郷台地の最南端を歩いた。

そこは、わたしにとっては思い出が詰まった場所だった。

こんどはどの坂にいこうか...。