きょうも「危険な暑さ」だ。

2023年7月27日。

みんなで、まじめに、「温暖化」を止める行動をしなくてはならない。

 

湯島天神に行った。

63歳のわたしが人生でいちばんたくさんたちどまった神社だ。

30年前、会社を辞めて独立したころ、

湯島のかみさんの実家に居候するという身の程ながら、

湯島天神の真ん前に、数年間事務所を構え、境内を見降ろしていた。

いや。いまになって思えば、何もわかっちゃいないわたしを、

天神さまが見守ってくれてたのだろう。

毎日、かみさんの実家を出て、男坂をのぼって通っていた。

前だけを見て。

あらためて、湯島天神に「たちどまる」。

 

前だけ見 毎日のぼった 男坂

 

独立し 天神さまに 見守られ

 

ウィキペディアで湯島天神を調べた。

古来より江戸・東京おける代表的な天満宮であり、

学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため

受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れる。

普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。

境内の梅の花も有名で、境内の約300本の梅木のうち約8割は白梅である。

458年、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建された。

南北朝時代の1355年、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。

徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けた。

江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集める一方、

享保期には富籤の興行が盛ん(江戸の三富の1つ)になり庶民に親しまれた。

これは、歌川広重が、湯島天神の鳥居の前から上野不忍池を眺めて描いた絵だ。

これは、2023年7月27日現在の鳥居だ。この右側が不忍池方面になる。

 

本堂にお参りした。

暑さからか、参拝者は、わたし以外は外国人だけだった。

本堂の脇には、絵馬、七夕短冊、おみくじ、がたくさん掲げられていた。

絵馬と短冊をすこし読ませていただくと、多くが、合格祈願の文言だった。

さすが、東京を代表する、学問の神様を祀る天神様だ。

 

湯島天神は、神田明神と同じように、記念碑や合祀の神様がたくさんみられる。

鳥居の近くからみていこう。

ここは文芸関連の碑が多いのが特徴のようだ。

まず、包丁塚。

つづいて、筆塚。

そして、湯島天神の象徴である梅園と、その記念碑。

裏手には、都都逸の碑。

ちなみに、都都逸とは、七七七五の調子で語句をつないでうたう歌い方だ。

さらに、新派の碑。

新派とは、ふるくからある歌舞伎のような演劇にたいして、

新たに生まれてきた現代劇全般を指すようだ。

そして、文房至宝碑。

至宝とは、紙、筆、墨、硯の四つの文具を指すようだ。

つまり、文筆全般の記念碑といえる。

講談発祥の碑もある。

ここは、学問の神を祀る有名な神社だけあって、文芸の世界の記念碑が集中している。

 

湯島天神は、神田明神と同じく、本郷台地の縁に建っている。

南からの表参道以外の、東の上野から、北の春日通りからは、坂をのぼってはいることになる。

さきほど示した歌川広重の絵のように、眺めはよいのだが、参拝者はけっこうつらい。

でも、その辛さの上の参拝だからこそ、お参りの感激も生まれてくるのだろう。

これは男坂。急だ。

わたしは30年前、毎日ここをのぼっていた。

その横に女坂。男坂にくらべなだらかにしてある。

横には梅園も広がる。

北の春日通りからは夫婦坂。

「男坂」「女坂」「夫婦坂」。

よく言ったものだ。風情を感じる。

いまではこうはいかないだろう。

 

決めた。

先日から、神田明神への参拝、「しあわせにくらせています。ありがとうございます」の繰り返し、を、

毎日の日課とし、続けているわけだが、

これからは、この湯島天神への参拝も、併せて実施しよう、日課に加えよう。

なにせ、30年前、会社を辞めて独立したころ、

何もわかっちゃいないわたしを、毎日見守ってくれていた、神様なのだから。

湯島天神にも、毎日、「しあわせにくらせています。ありがとうございます」を繰り返そう。

 

余談だが、これが30年以上前にいっちょ前に仕事場をもった湯島天神真ん前のビル、

そのときしょちゅう親子丼を食べていた、鳥居前の「鳥つね」だ。