神田明神参りをはじめて三日目。

これから毎日挨拶にうかがうので、

この場での報告はそろそろ一段落してもよいのだろうが、

ずっと続く日課のはじめなので、東京の神様「神田明神」の姿をもうすこし

あきらかにしておくことにした。

 

しきたりにのっとっていないと怒られそうだが、三日目にしてようやく参拝前の手浄めをした。

初日、二日目も手浄めの場所を探してはいるのだが、目にとまらず、

きょうは門の右隣にあることにすぐ気づいた。

 

きょうは7月15日土曜日。これまででいちばん参拝客が多い。

神前にたどりつくまで二列に並んだ。拝むまで五分はかかった。

参拝の顔ぶれは、これまでは、年寄り、おじさん、おばさん、外国人だったが、

この日は、若い人たちも多かった。

東に秋葉原、南のお茶の水は学生街、ということも影響しているかもしれない。

神田明神は老若男女すべてに人気なのだ。

さすが東京の神様だ。

 

五七五ひとつ。

明神は きょうも決め手の 銭が飛ぶ

 

 

神田明神の姿をすこしだけ深堀するわけだが、

きょうは、境内のあちこちにある記念碑をみていこう。

まずは、門をはいって右のところから。

神田明神は本郷台地の縁にあり東南側に東京の平地が開け、北側も谷間になっている。

そのため、東と北からは坂をのぼって参拝することになる。

神田の街からの東からの上り坂は「男坂」といって急な階段になっている。

その階段を登り切ったところに「石灯篭」と石でできた火消の纏がある。

この「男坂」の石段と石灯籠は、天保年間、町火消四組が奉納したものだ。

江戸の歴史は大火事などの災害とのたたかいの歴史でもある。

 

このまま反時計回りで本堂を一周する。

本堂のすぐ脇には、「明治天皇御臨幸記念碑」がある。

東京への遷都となり、

京都で長い長い年月を継いできた天皇もはじめて住む地をここに移し、

地の神に挨拶に来たということだろう。

 

本堂の脇をはいっていく。

ご存じ「銭形平次」の碑がある。

野村胡堂が生んだ江戸の名探偵銭形平次親分は、神田明神下に住んでいた。

寄贈者の名前の中には、長谷川和夫や大川橋三の名もある。

悪者に向かって寛永通宝の銭を投げて降参させるなんて、すごく大胆な発想だと思う。

 

「国学発祥の碑」もある。

ネットで調べると、国学とは、江戸時代に生まれた学問で、

国語、国文学、歌道、歴史、地理、神学などで構成されるようだ。

いまでいえば文系全般の学問だ。

荷田春満という人がこの神田明神の敷地ではじめて学校を開いたらしい。

 

「阿部笙人句碑」というのもある。

「山茶花の 散るや己の 影の中」

うまい! のだろう。そういう雰囲気はある、意味が深そう、でもわたしごときでは真意はわからない。

 

「さざれ石」がある。

君が代の歌詞にある、あの「さざれ石の巌」だ。

小さな石がかたまってひとつの大きな岩の塊に変化した「石灰質角礫岩」のことを言うようだ。

日本各地に同類のものがあり、元祖は岐阜県の天然記念物に指定されている岩らしい。

 

きょうは、このへんにしておこう。

あしたは、神田明神に祀られている神様を紹介していく。

このつづきと思ってくれればいい。