きょうは、浅草橋、柳橋だ。

ここは、神田川の終い、隅田川に注がれる場所、だ。

なので、江戸時代は、花街、舟遊びの中心地だったようだ。

柳橋芸者は、江戸の花街のなかでも最高位とみられていた...、ネットを調べるとそう解説されている。

明治以降は、ここには問屋街になった。

隅田川という全国から荷が運ばれてくる一大物流網と、東京各地への網状配送網ともいえる神田川の、

二川に接する場所だったからだろう。

 

神田川 終いは柳で 花と咲く

浅草橋 二川がつくった 問屋街

 

これが、神田川が隅田川に注ぎこむ場所だ。

そこにある神田川さいごの橋が柳橋だ。

その傍らには料亭「亀清楼」がある。

以前は、料亭がたくさん並んでいたようだが、現在残っているのはこの亀清楼一軒のみだ。

その前には、賑やかだった頃から続いている、佃煮小松屋がある。

その小松屋の前には、天ぷら大黒屋もある。

亀清楼、小松屋、大黒屋の前の神田川沿いには舟遊び小屋がまだいくつも並んでいる。

これらは、いまだに、江戸時代からの柳橋の風情を残しているといえる。

 

それから、ここには日用品・文具・人形玩具の問屋さん、メーカーの販売会社が集まっている。

 

浅草橋の大通り、浅草へとつながる旧日光街道沿いには、

人形の、問屋でなく、小売店も多い。たとえば、浅草駅駅前の人形の久月、それから吉徳...。

それから、JR浅草橋駅あたりには、アクセサリーの小売店もたくさんある。

そもそも、なぜ、ここには人形店やアクセサリー店が多いのか。

江戸時代、ここは、端午の節句、桃の節句の際の人形の市が開かれる場所だったそうだ。

また、浅草観音への参道でもあるこのあたりは、土産物として玩具産業が発展したようだ。

アクセサリーは、その人形・玩具をつくる技術から生まれ、ひろがったようだ。

 

ほんとに、東京のまちは、江戸期からの400年の歴史が積み重ねられて「顔」が出来てきているので、

すごく面白い。