お江戸、日本橋だ。思わず興奮して二句。
たちどまる 石で出来てる 日銀だ
日本橋 聳える主 三井城
前回までしばらく立ち寄りつづけた「神田」を離れ、今回からはその南の「日本橋」界隈にはいる。
きょうは、まず、「日本橋北詰」にたちどまる。
正確に言うと、日本橋川の北側で、日本銀行のある日本橋本石町、三井グループの本拠地の日本橋室町、医薬品会社が多い日本橋本町からなる。ついでに、その東、昭和通りを渡った日本橋小船町までみてあるこう。
江戸時代、日本橋には貨幣鋳造所の「金座」があった。現在も、その跡地に日本銀行が建っている。
石造りのなんとも重厚な建物だ。
わたしは、住宅設備会社のお仕事も手伝わせていただいたことがあったが、建築物でもっとも高級なのは石の建物だった。「ピカ現場」と言っていた。むかしは、お城がそうだ。いまでは、国会議事堂と、この日本銀行が、それにあたる。もしかしたら、日銀の隣にある「三井本館」もそうかもしれない。
この「金座」があったために江戸時代の日本橋は、「越後屋」などの両替商の街でもあり、米の先物取引を行う「米会所」の街でもあり、日本の金融、もっと言えば日本経済の、中心地であった。明治時代になっても、日本銀行だけでなく、日本初の国立銀行「第一国立銀行」、日本初の民間銀行「三井銀行」が開業している。
日本橋は、日本橋川が流れる地である。
いまも、「20代目」とも言われている日本橋が架かっている。
大ヒットしたミステリー「麒麟の翼」によって、この地があらためて注目を浴びたことは記憶に新しいところだ。
江戸で消費される物資はこの日本橋川を通じてこの日本橋にたくさん運び込まれた。
いまも、ちゃんと、橋の脇には船着場がある。観光用だが。
ここで荷揚げされたのは物資だけではない。
海産物もここから江戸の食卓に運ばれていった。この日本橋は「魚河岸」という顔ももっていた。
そして、日本橋は、「三井村」だ。
いや、その大きく重厚な建物群からは「三井城」と呼んでもいい。
「三井」は、江戸時代の呉服屋越後屋がはじまりで、やがて両替商越後屋もはじめ、当主は「藤原」姓から「三井」姓に変え、明治時代になると「財閥」を形成し、第二次大戦後も、日本を代表する企業集団三井グループとして発展しつづけている。
その三井の本館がこの日本橋にある。隣の「日本銀行」に負けないくらいの重々しさを漂わせて。
いまは、その「三井本館」の隣に高層の「三井タワー」が聳えている。
三井タワーの1階には、大きな大きな暖簾がいくつもかけられていて、道行く人たちをたちどまらせている。
もちろん、江戸時代から昭和にかけてずっと日本の中心のひとつだった日本橋は、老舗の宝庫でもある。
いくつか見ていこう。
まず、鰹節の老舗「にんべん」。創業は江戸時代初期で、「伊勢屋」と名乗り、当主は「伊兵衛」という名前だったようで、そこから「にんべん」が通り名となったようだ。やはり、ここが「魚市場」として機能していたことが背景だったのだろう。
ほかにも、「大和屋」「貝新」「山本海苔店」などの海産物を原材料にした老舗が多いのもそのためだろう。
あと、日本橋といえぱ包丁の「木屋」がある。ここも江戸時代の創業だ。
それから、「伊場仙」。ここも江戸時代創業の扇子の店だ。
江戸時代の末期になると果物の「千疋屋」もあらわれた。
さいごに、「三井城」の高層ビル群のなかにある、小さな神聖な森、「福徳神社」にも触れておこう。
ここは、徳川が江戸に幕府をひらくずっとずっとまえ、もしかしたら平安時代ころから、祀られていたらしい、幸運を呼び込むとされる神社だ。
この「三井村」は、ベンチやテーブルがあちこちに配置され、ひとやすみしやすい、ヒトにやさしい街なのだが、この「福徳神社」は、小さな森と水の流れがあり、ひときわほっとできる、「たちどまる」に適した空間になっている。















