師匠圓朝との腕比べとは、あくまでもあたくしの推測ですので真偽の程は補償できません。しかしかなり確度の高い推測と自負しております(^^)

 

原典は初代三笑亭可楽

 

 四代橘家圓喬の『暦の隠居』が速記本「百花園」に掲載されたのは1897年(明治30年)1月5日号です。
 一方、三遊亭圓朝の『暦ずき』は速記雑誌「名家談叢めいかだんそう」の1897年(明治30年)1月号に掲載されました。この雑誌は講談・落語だけでなく著名人の談話を速記して掲載するという面白いコンセプトで発刊されました。圓朝と知己があり『真景累が淵』の真景の名付け親と言われ、圓喬に読み書きを教えた信夫恕軒も忠臣蔵の談話を載せております。
 この『暦ずき』の中で圓朝は「このお話は明治三十年の一月九日といふ日に限るお話で……」と断っております。また「若林先生(蛇足註:速記の第一人者で、この雑誌の発行人の一人若林坩蔵)から名家談叢初刷の附録として、何かお目出度いお話を……」とリクエストがあった事を語っております。
 そして圓喬の『暦の隠居』はほかに速記がなく、僅か八代入船亭扇橋の音源が残されているのみです。
 圓朝・圓喬の師弟どちらも、初代三笑亭可楽(京屋又五郎 1777-1833)の『小よみずき』を原典として大きく改変しております。可楽の『小よみずき』が500字程度なのに対して、圓喬は1,800文字弱、また圓朝は3,000文字強の作品に仕上げております。
 以前紹介した『魚づくし』同様、

 

 

 現代では通じない(通じにくい)洒落が満載の噺で、絶滅落語と思われます。まずは圓喬の『暦の隠居』を全文掲載いたし、そのあとに師匠圓朝の『暦ずき』を掲載する事にします。途中わかりにくい箇所にはあたくしが必死に調べて注釈を入れております事をお詫びいたします。

 

四代橘家圓喬の『暦の隠居』

 暦の隠居
 四代目橘家円喬 口演
 吉田欽一 速記

 
 よく変な事を気にします人がありますが、しかしこの、縁喜えんぎという事は上々うえうえ方にもありまする事ですから。これは合ってもよろしい事でありますが、この、物をかつぎますとか、気にするという、あれは誠に好くない事で
   
めば忌め 忌まねば忌まず 忌むという 文字は我身の 心なりけり
 とか申しまして、忌むという字は
の下に心という字を書くそうであります。これは宜しくないしるしで、自分の身を思い知る。
   心から 心に物を 思わして 身をくるしむる 我身なりけり
 自分と自分の身を苦しむる様な事が
出来しゅったいします。ところが前申し上げました、祝うという縁喜えんぎという事は、ちょっとした事で、商人集あきんどしゅうのこの、帳面の上書きを見ますと、金銀出入帳としてございますが、あの上書きに出の字を小さく書いて、そこで入るという字を大きく書きますが、あれが縁喜えんぎであります。また出が大きくなくってはいけないというのは、以前船宿駕籠屋、只今の車屋さん、また芸者屋の玉帳ぎょくちょう、出という字を大きく書きます。ところがその昔、変な事を気にする隠居さん、明けました若春はつはるの事。
   
一年ひととしの 人の心は 今日にあり
 正月の元日、只今一月一日。
隠居「どうも目出度いな……」
番頭「旦那様、御目出度う存じます」
「まあまあ、一年の事は正月にあり、その月の事は一日にあり、というから、マア、どうか松の内だけは笑って暮らしたいな」
「ごもっともでございます」
「ヤア……隅々掃除も行き届いていますな」
「恐れ入ります」
「私は知っての通りこういう
かん持ちだから何だ……今年はマア……良い年だよ」
「左様でございます」
「まー……この、
略暦こよみ(蛇足註:略本暦、本暦から日常生活に関する部分だけを抜き出し、一般に使いやすいようにした暦。伊勢神宮の伊勢神宮の神部署が頒布した本暦と違い、発行主体は私人)で見るに初暦、この、酉年ぐらい良い年はありませんな」
「左様でございます……御目出度う存じまするな」
「おれは何でも暦に漏れた事は嫌いだ」
「左様でございます。日々の
吉凶よしあしを調べます暦、それに習って物をまして居りましょうなれば誠に結構でございます。間違いはございませんですからな」
「シテ……あの障子へちょいと穴が明いているが、誰がしたのだ」
「ヘエ……」
「誰がしたんだ」
「ヘエ……下女が致しました」
「下女が飛んだ事をしたな、初春早々障子へ穴を明けるなんて」
「でも暦に出ております」
「何と」
御覧ごろんじゃいまし」
「どこに……」
御覧ごろんじゃい、おさんやぶる……」(蛇足註:暦注十二直のうちの”やぶる”と障子を破るを掛けたもの)
「除くか……(蛇足註:これも暦注十二直のうちの”のぞく”と障子の穴から覗くを掛けた)、相変わらずおまいは洒落が旨いな。それはそうと、出店の者は大概は念頭に来て下すったが、まだ甚平が来ませんな」
「ヘエー……年々御早い方でございますが、当年は未だ御出でございませんな」
「どうもこの三日の内に顔が揃わんと気になるからな」
 という話半ばにほろ酔い機嫌。
甚平「結構の春も御目出度うございます」
隠居「オヤ……甚平か、お入り、イヤ……御目出度うござります」
「ありがとうございます」
若春はつはる早々だが遅かったね」
「モ
ッと早く参りましょうと思いましたが、実は、すみませんが虎の門の御出入り先に立ち寄りますと、御客様から……」
「家業は大事だからな」
「兎のお吸い物で一口頂戴しましてあなた、牛込へ廻りましてそれから浅草の猿若町。そこで年頭を一軒済まして馬道へ出まして、
羊新道ひつじじんみちで髪を束ねまして、鳥越の親戚の方へ参りました。そこへ参りましたところが、辰巳たつみ(蛇足註:深川の事)へ行って犬(蛇足註:いぬ 居ぬ いないという事)というから、それではいといって帰って参りました」
「口合が旨いや」
「十二支の干支で御屠蘇を頂戴しました」
「また実にどうだ……甚平は口合が旨いね……上手だなー……虎の門へ行って兎のお吸い物で、牛込へ行って、猿若町から馬道、羊新道から鳥越へ行って、辰巳へ行って犬というなら、そんなら亥という……番頭、
十二支えとというもんはいくつだ」
番頭「十二支というから十二でしょうな」
隠居「今言ったのは十一……イヤダイヤダ。初春早々気になるな」
番頭「足りなくともよろしゅうございます。お年玉が
鼠半切ねずみはんぎり
でございます……」

(おはり)
百花園 明治三十年一月五日号より

 

 最後の鼠半切とは、漉き返した鼠色の半切紙(大判を半分に切ったもの)のことです。
 原典となった初代可楽作『小よみずき』のサゲも同様に「おとし玉が、ねずミはん切で厶ります」(原文ママ)となってます。

鼠半切

 

三遊亭圓朝の『暦ずき』

 

 では同じ原典を師匠の圓朝はどう料理したのかこちらも全文掲載します。こちらもあたくしが勝手に注釈を入れております。

 

 暦ずき
  三遊亭圓朝 述
  武 陽 生 速記

 
 へー一席申上げます。話初はなしぞめとして、お目出度い暦ずきのお話を致します。このお話は明治三十年の一月九日という日に限るお話で、妙なお話があるものです。
 若林先生から名家談叢初刷の附録として、なにかお目出度いお話を一席出せと仰る。急ごしらえでござりますから、余り面白いようには出来ませぬが、
と思いつきましただけの事を申上げます。
 ある暦ずきの隠居さんがございまして、その名も
古沢旧弊ふるさわきゅうへい
と申し、まだチョン髷があって、占いがすきで、しきりと九星
陰陽道おんようどうで、一白いっぱく二黒じこく三碧さんぺき四緑しろく五黄ごおう六白ろっぱく七赤しちせき八白はっぱく九紫きゅうしの九つの星。これを五行ごぎょう(中国の昔の思想で、宇宙の万有を作っている元とした、もくごんすいの五つの称)・方位に配し、人の生年にあてて吉凶を占う九曜星
 に凝っている。この人はやかましくて、イヤ小言を言うことひどい。暮れから春へ掛けて小言ばかり言っていて、一げつじつから小言開きがはじまるというくらいですから、奉公人はコッパイ(蛇足註:さんざんな目にあうこと)でございますが、暦のことで言い訳をすると、この隠居の機嫌が直るということを番頭が心得ております。一月九日に店へ出て来ましたが、春から小言を沢山言われておるので、皆チリチリしております。
隠居「エー新蔵」
新蔵「へー」
「どういうものだネー、エー」
「ヘイ」
「わしが若い時分に『元日の棚のほこりも新しく』という句を詠んだが三が日というものは掃除をするものではない。それだから大晦日までに煤掃きをしたり、掃除をして置いて、正月になったら塵一つ出すのは
不縁喜ぶえんぎだから、掃かないようにしなければならぬ。掃除をしてはならぬと言って置くに、なぜ三日に掃除をしたエ」
「へー……あれはその暦で見ましてナ。へヽヽヽヽヽ一
じつ四方拝しほうはい
ですからナ」
四方拝:一月一日に行われる皇室祭儀。明治以前は元旦寅の刻(午前四時頃)に聖上が清涼殿の東庭で属星ぞくしょう(陰陽道で、その年に当たる星。子年は貪狼星、丑・亥は巨門星、寅・戌は禄存星、卯・酉は文曲星、辰・申は廉貞星、巳・未は武曲星、午年は破軍)を唱え、天地四方・山陵を拝して年災を払い、五穀豊穣・宝祚ほうそ(天子)長久を祈った。現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。陰陽道に由来する
その四方拝と四方灰を掛けた洒落

「なるほどお前はいつでも暦を調べて言い訳をする。感心だ……重詰じゅうづめ(蛇足註:ここでは重箱に収められたお節料理のこと)が大層少ないようだネ」
「へー……少々減らしまして」
「だッて肝腎の
田作ごまめと数の子がなくては困るじゃないか」
「ヘイお客様がお屠蘇を召し上がっても、お重詰の物は召し上がりませぬ。年々残っても後で
しもの者が食べるのを嫌がりますから今年は二割元始祭げんじさい(蛇足註:皇統の元始を祝う元始祭げんしさいと二割減を掛けた洒落)と致しました」
「なるほど
元始祭げんじさいは感心だ。お前のように暦で言い訳をされては小言は言えない……うち下婢かひ(蛇足註:女中のこと)のおかめは少しも見えないようで、台所にもいないようだが、どうしたい」
きのえからております(干支の一番目の甲子きのえねと”昨日からねております”と掛けた洒落)
きのえからております。なるほど、乙う言うナ……庭の垣根が壊れているがどういう訳で、アアいう穴を開けたエ」
「へー……あれは犬やぶる
(干支の戌と暦注十二直の”破”を掛けた洒落)でございます」
「犬やぶる。なるほど、しかしそう言い訳するが好いが、早速大工でも呼んで直させてくんなヨ。
計都星けいとせい蛇足註:九曜(日・月・木・火・土・金・水の七曜星に羅睺らご・計都の二星を加えたもの)の一。ぼう宿にある星。生年と結び吉凶判断とした。計都星に当たる年は”災難多し盗難の恐れあり”などという)当たる年は盗難があるから、万事油断すべからずだ」
「あれは
西北さいほくが塞がっておりますから、東南はありませぬかと存じます(明治三十年計都星に当たる人は西北塞がり。それと対極の東南と盗難を掛けたもの)
「なるほど、
西北にしきたが塞がりで東南はない。ひがしみなみなしか。お前は才子だ……屠蘇の味醂が少ないようだネ」
「左様でございます。また土曜
(九曜の土曜と”御用”を掛けた)が参りますれば申し付けます」
「なるほど、土曜が来れば言い付ける。感心だ……小僧の常蔵は寝ているそうだネ」
「あれは少し冷え性で。寒中になりますと、
下性げしょうが悪くて(蛇足註:腹を下しやすい)いけませぬ」
「困るノー、除く
(十二直の一つの”のぞく”と様子を見る”覗く”を掛けた洒落)としようか」
「イエイエ
九星きゅうせいてやりますから(灸を据えてやるの洒落)、直に治ります」
「なるほど九星てやるは感心だ……おれの
うちへ来る出店の為蔵は毎年きっと七草に年始に来る男だが、どういうものだろう今年に限って今日まで来ないが、例が欠けると往けない。おれは誠に気になる」
「へー御心配には及びませぬ。今に参りましょう」
 と、話をしているところへ
出店でだなの番頭が参りました。
番頭「へーお目出度うございます」
新蔵「アヽ好いところへ来た。
うちの隠居がお前の年頭に来る日を覚えていて、七草に来るはずなのに来ないのはどうしたのだッて、腹を立てて御出でなさる」
「それは誠に相済みませぬ……へー御隠居様、お目出度うございます」
隠居「サアこッちへお入り……お前は毎年七草に年始に来るのが例になっているのに、今年に限って来ないがどうしたのだエ」
「へー参ろうと思いましたが、年頭廻りでツイ遅くなりまして」
「遅くなってもおれの
うちへ来る日は決まっている。その日に来ないと、おれの方でも気になって無縁喜ぶえんぎだから……」
「昨日は遅くても上がるつもりでござりましたが、今年は
とりの年ででございますから、酉の名の付く所を歩きたいと思いまして、実はそのエー雉子町きじちょう(蛇足註:現在の神田小川まち一丁目辺り)へ出ましてナ」
「ハヽア」
「それから雉子橋御門
(蛇足註:千代田区一ツ橋辺り)や何かを廻りまして、その年玉は皆卵に致しまして」
「なるほど」
「朝早く起きまして、
鶏肉けいにくのソップ(蛇足註:スープの事 オランダ語由来)べましてナ」
「へーおれはそんな物は嫌いだから、
べたことはない」
「まず最初に牛ヶ淵
(蛇足註:現九段坂南の堀)のお屋敷へ参りまして」
「牛ヶ淵のお屋敷、なるほど相変わらずのお出入で」
「それを済ませて虎の門の女学校
(蛇足註:当時永田町から虎の門に移転した東京女学館のこと、伊藤博文・渋沢栄一などが設立に関わる)に参りました。あすこは年々お買上げの物がございますから、あすこの年頭を済ませまして、それからたつみ君の所へちょっと寄りました。昨年の所々しょしょ貸付金のことがございますから」
「なるほど」
「それから直ぐに馬道の友達の所へ寄りましたところが、亭主が留守でございますから、これこれ言ってくれろと、羊
(執事)に申し聞けて、それから猿屋町さるやちょう(現浅草橋辺)へ出まして、猿屋町の挨拶を済ませて、鳥越の友達の所へ参りましたところが、生憎いけない時はいけないもので、そこでも亭主がおりませぬで、女房の申すには、今日は土曜日であるから、金曜(金用=金策)に行って来ると言って出ましたと、火曜(斯様)に申しますので」 「なるほど」
「それから仕方がないから、今日はお帰りになるかと言いましたら、その女房が暦を
って九星きゅうせい(急請)なれば呼びにやりますが、帰りは五黄(午後)になるか、一白(一泊)致すかも知れませぬと申しました」
「なるほど」
「それから私が犬なら
(居ないなら好い)、と申しましてうちへ帰りましたら、くたびれて、グウッと(寝て)ございますから、こちらへ上がるのが遅くなりました。どうか御勘弁を願います」
「なるほど、子を一番後へ使ったのは感心だ。初め牛ヶ淵へ行って、虎の門へ出て、それから巽君の所へ寄って、馬道の友達が留守だから羊に頼んで、猿屋町から鳥越の友達の所へ行ったら留守で、犬なら亥と言った。なるほどそれでスッカリ揃ったネ……アヽもう帰ったかエ」
新蔵「今喜んで帰りました」
隠居「あの男は感心だ。ズッと十二支の干支で言い訳をしたが……何か一つ足りないようだナア。牛ヶ淵から虎の門、巽、馬道、羊に言い付けて、猿屋町から鳥越へ行って、亭主が居ないから、犬なら亥、
うちへ帰って子……十一ほかない。何か一つ足りないようだナ」
「それでよろしゅうございます。
今日こんにち初卯はつうでございます」

初卯:その年最初の卯の日のこと。明治三十年の初卯は圓朝が冒頭述べたように一月九日が丁卯ひのとうで初卯。

(おはり)
名家談叢 明治三十年一月号より


 別に初卯は毎年やってくるので、明治三十年に限らなくても好いような気もしますが、明治三十年の一月九日に限る、というのではなく明治三十年は一月九日に限る噺、なんでしょうね。

 

師弟対決の結果は?

 

 ほぼ書斎可楽の小咄を踏襲して膨らませた圓喬と違い、圓朝は一部に可楽を取り入れたものの、元始祭や九曜など新たに取り入れまったく別の噺として作り替えてます。
 両人とも噺の本編に入ってからはほぼ会話だけで、僅か一言ずつ地の言葉を入れているだけです。
圓喬が

「どうもこの三日の内に顔が揃わんと気になるからな」
 という話半ばにほろ酔い機嫌。
甚平「結構の春も御目出度うございます」
隠居「オヤ……甚平か、お入り、イヤ……御目出度うござります」

 一方の圓朝は

「へー御心配には及びませぬ。今に参りましょう」

 と、話をしているところへ出店でだなの番頭が参りました。
番頭「へーお目出度うございます」
新蔵「アヽ好いところへ来た。うちの隠居がお前の年頭に来る日を覚えていて、七草に来るはずなのに来ないのはどうしたのだッて、腹を立てて御出でなさる」

 圓喬の”という話半ばにほろ酔い機嫌。”という切れのいい言葉で繋いでますが、この噺には少々切れが良すぎるように感じます。やはり圓朝のように”と、話をしているところへ出店でだなの番頭が参りました。”とした方が新年の噺に相応しい調子であるように感じます。
 また、圓喬が遅れて年始に来た甚平と旦那の会話が平板であるのに対し、圓朝は旦那に詰められて言いよどんだり矛先をかわしたりという場面を描いてます。この奥行きは圓朝の創作力というべきでしょう。
 やはり師匠圓朝に一日の長を感じる腕比べとなりました。まあ、圓喬はこの時まだ満三十一歳ですから、これからの精進に期待しましょう。

明治三十年の略本暦から四方拝と元始祭