雑誌「都にしき」の1896年(明治29年)の1号(通巻49号)に掲載されました。目次は『魚づくし』ですが本文題字は『魚盡し』となっております。
初代林屋正蔵作といわれ、今では絶滅した噺です。同じく魚たちが主人公の圓朝作『魚の話』とは違います。歌舞伎仕立てと言いますか、歌舞伎の台詞がそこかしこに出てくる噺で、五代目市川團十郎(1741-1806)の時代に拵えられた古~い噺です。圓喬以外では圓喬と同時代の噺家、春風亭柳花(松平乗房 1852-1915)と初代春風亭小柳枝(飯森和平 後の四代柳枝)の速記があります。名著「口演速記 明治大正落語集成」(暉峻康隆・興津要・榎本滋民編集)には三代小柳枝口演とありますが年代的に初代の誤りでしょう。
圓喬がマクラで五代團十郎や三代松本幸四郎(同一人物です)の逸話などを詳しく紹介しているように、魚たちが歌舞伎の台詞で会話をしたり、魚にちなんだ駄洒落が満載な逸品です。現在廃れたのが惜しい噺です。客と場所を選べば喝采間違いなしだと思うのですが、何方か演ってくれないかしら?
同じような「魚づくし」が歌舞伎にもあります。歌舞伎は「さかなづくし」なのですが、義経千本桜 渡海屋の場 で、相模五郎がくやし紛れに啖呵を切る場面です。
「鰯(いわし)ておけば飯蛸(いいだこ)思い、鮫(さめ)ざめの鮟鱇(あんこう)雑言。いなだ鰤(ぶり)だと穴子(あなご)って、よくい鯛(たい)目刺(めざし)に鮑(あわび)たな」(⇒言わしておけばいいだろと思い、様々の悪口雑言。田舎武士だとあなどって、よくも痛い目にあわせたな)
「鯖(さば)浅利(あさり)ながら、鱈(たら)海鼠腸(このわた)に帰るというはに鯨(くじら)しい。せめてものはら伊勢海老(いせえび)に、このひと太刀魚(たちうお)をかまして槍烏賊(やりいか) はや 細魚(さより)なら」
落語版『魚づくし』では圓喬はマクラで、五代團十郎の幡随院長兵衛は荒磯の着物(marsさんのプロフィール画像でお馴染みです)
で地声でも「いつでも尋ねてごぜいやし、陰膳据えて待っております」との名台詞に誰もが「高麗屋ァ」と声を掛けたと紹介しております。
- 袷衣化して 松魚となるや はなの江戸
- はつがつほ なまりは出すな 竹元の 節のうまさに 頬をかかえて
- 烏帽子とも 松とも云わん 初松魚 片身は須磨の しほやきにして
- 百両も 仕舞い見せねえ はつかつほ
- そこが江戸 犬も烏帽子の ひろい首(五代目の川柳)
などを引き合いに本編ヘ入ります。柳花や小柳枝の速記よりも長い噺ですが絶滅を惜しんでここに本編を全文掲載いたします。地口は分かる範囲で括弧に記しました。分からないところは飛ばしました。どなたかお分かりになりましたらお教えくださいまし。また、あたくしには芝居の下地がありませんので、誤りなどあるかもしれませんことを、あらかじめお詫びしておきます。ごめんね、ゴメンネ~ m(__)m
鈴ヶ森で白井権八と知り合った幡随院長兵衛の台詞「陰膳据えて待っておりやす」を「甲羅を干して待っておりやす」に代え、蓑亀を飾った「蓬莱」と、松本幸四郎の屋号「高麗屋」を掛けたオチです。
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蓑亀図墨床