第1回「Tristan und Isolde~Plelude」(1865)/Wagner | 柑橘スローライフ

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私は全くといっていいほど、ワグネリアンではなく、
どちらかというと、「反ワグネリズム」なのですが、
近代音楽的なものの最初の胎動として、個人的にもっとも感じるのは、

楽劇「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」です。

この曲にはやはり脱帽するしかありません。良いものは良いです。



フルトフェングラー(フルトヴェングラー)の指揮のものを選びました。
私は一般的なクラシックファンが行う「指揮者や楽団の聴き比べ」は基本的にはせず、
予め自分の中にあるテンポの嗜好だけは合わせ、絞ったものしか聴きません。
理由は出口の無い袋小路を彷徨う事があまり好きでないからです。

ロック、ジャズ・フュージョン、ソウルで名曲選をしてきましたので、
どうせならということで、近現代音楽も始めます。
もともとは、それぞれのジャンルを完遂したのちに一つずつしていこうと、
思っていたのですが、実際には「一つのジャンル」だけ続けるよりは、
同時並行的にその都度気分でセレクトしていくほうが面白いと云う事に
気付きましたので、そういう感じでいきたいと思います。
あとはポップスその他も追々ラインナップさせようと思います。

クラシック音楽とせずに、あえて近現代音楽としたのは、
私自身の知識と興味がその辺りに限定されているからです。

「近代」という括りは、非常に概念的に曖昧で、
政治史的には、民主化に移行する時期、西洋では18世紀末、
日本では19世紀末の明治維新の頃と言う事が出来ると思いますが、
厳密的に本当の民主化が実現したか否かではなく、
民主化的な流れへの胎動の時期といった感じだと思います。

クラシック音楽の世界でも「近代の括り」に関しては諸説あると思いますが、
個人的には1860年代辺りの発表作品からと思っています。
奇しくも日本の明治維新の時期にあたるわけですが、
個人的なその判断の理由は、「ワーグナーの存在」です。

ワーグナーは生年(1813年)からすると、音楽史上の位置づけは、
堂々としたロマン派期の音楽家であり、彼の音楽の多くは確かにロマン派的なものです。
しかし、そうした類型的な事よりも重要なワーグナーの意味合いは、
やはり「和声の革新」であり、それは云わば近代音楽の胎動、
または、ロマン派音楽の究極的な到達点と言っていいものだと思います。

その後の重要な音楽家がいるので、「近代音楽の夜明け」とは言い難いですが、
伝統的な音楽に立脚しながらも、間違いなく、そうした音楽に対する、
最初の革新者であったことは事実だと思います。

どうでしょう、印象主義絵画における先達としての「マネ」のような存在。
絵画に例えれば、そんな立ち位置のイメージがわかりやすいかと思います。
かといって、本当の楽壇の印象主義の中では、決して「マネ」のような存在ではなく、
むしろ、敬遠されるべき(アンチ・ワグネリスト達からすれば)存在だったと言うのが、
最も事実に近いという気がします。

いや、敬遠と言うよりも、その存在のあまりに破格な巨大さゆえ、
後の音楽家は別の道を模索せざるを得なかったわけですね。

1865年初演のこの作品に関してのプロフィールに関しては、
敢えて割愛します。私が書くまでも無いことですので。
それにしても、この作品の初演時、日本はまだ江戸時代だったという事には、
本当に驚きます。あまりにもの差があるなと思うわけです。

とにもかくにも、半音階の上昇下降の拡調性、交錯する和音、
夢幻的、いや無限的に広がっていく、終わりを感じることの無い旋律的な和声。
どこか幽玄な大自然の移ろいや深遠な人間の心の動きを感じさせる音の群れ。

音的な物理的理解は様々にあるのですが、野暮になるのでこの辺りとします。
何れにせよ、「音楽」を愛好する人間にとって、
このワーグナーの前奏曲は、間違いなく最重要なものの一つと、
言う事ができると思うのです。

僅か10分余りです。
最重要な音楽の「ひとつ」に是非いつか耳を傾けて頂ければと思います。




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