最後のギャンブルから3年と8ヶ月半が経ちますが、僕を取り巻く環境は大きく変わりました。


その過程で新しい人生の楽しみ方や物事の捉え方を知り、価値観や考え方の変化もあれば、借金の返済が進み、金銭的な余裕も生まれました。


その中で一番大きかったことを取り上げるとすれば、やはり『人間関係の変化』を挙げると思います。




これは「ギャンブルを辞めたら、素敵な方々と出会えた」というようなシンプルなものではなく、本当に色々な要素・要因が絡まった結果、とても軽やかでスッキリとした人付き合いが出来るようになった感覚です。


端的に言うなら、自分の中で他人を見る目が変わり、結果的に人付き合いにも変化が発生した、という感じでしょうか。




それを書く上で、まずはギャンブルばかりしていた頃を振り返ろうと思うのですが、今よりも格段に自分勝手だった確信があります。


行動そのものがギャンブル中心・最優先の生活だったために、金策に他人を利用したり、嘘を重ねたりしていて、全く信用のできない人物だったと思います。


元々、些細な言葉選びに変に気を遣ったり、他人の顔色を伺う気弱な性格なのですが、ギャンブルへの依存はそれらを軽々と飛び越えてしまうほどでした。



今はそのときの言動や行動を「ギャンブル依存症」という病気のせいにするつもりはありませんが、ギャンブルのためなら平気で家族や友人や恋人を欺く人間でした。




背景には「どうせ誰からも理解されない」という諦めと失望があったように思います。


他人や世の中への一方的な恨みとも言えるかもしれません。


自らが他人を騙しているにも関わらず、その他人や世間から認められたい。賞賛されたい。褒められたい。愛されたい。


これらを認めて受け入れようとするまでには時間がかかりましたが、心底にはそういう本心と欲求がありました。


思い描く理想の人生を歩むことが叶わず、孤独とギャンブルの沼にのめり込む自分のことを“誰でも良いから”認めてほしい。


こんな価値の無いクソ野郎だけど、存在を認めて愛してほしい。


要は『デカい構ってちゃん』だったな、と、パチンコ屋に入り浸っていた頃の感情を、今でも思い出すことができます。




なんとなく伝わっていれば嬉しいのですが、「誰でも良いから助けてほしい」というのは、とても上から目線で偉そうなんですよね。




本当は苦しいはずなのに、受け身というか。


たまにTwitterで「お金を貸してくれる人はDMをください」と呟く人を見かけますが、あの雰囲気とよく似ています。


助けてもらうはずの側が、何故か助ける側を選別している様子には、独特な違和感と、強烈な共感を覚えます。


僕も似たようなことを考えていたからです。




ギャンブルを辞めて、変わったと感じるのは、この『受け身』の姿勢を取らなくなったことだと思っています。




僕も先述のツイートをする方々のように、長い間“救済待ち”の日々を送っていました。


パチスロを打ちながら、競馬やボートレースを観ながら、こんなに苦しんでいる自分のことを、いつか誰かが助けてくれると、何年も本気で信じていました。


でもある時、この現実からの救いを他人に求めるということは、自分の人生の責任を他人に押し付けていることになるのではないか、と感じるようになりました。


きっかけは、ギャンブルを辞め始めたこと(=どん底を味わったこと)だと思っていますが、いきなりガラッと変わったわけではないです。


心境の変化はとてもゆっくりで、何度も浮き沈みを繰り返しながら、右往左往をしながら、数年をかけて変わっていったように思います。


孤独にしろ、借金にしろ、仮に世界のどこかにこの苦しさを理解してくれる人がいたとしても、這い上がるために必要なのは自らの意思と行動であって、他人に寄りかかって引っ張り上げてもらおうと考えていた己の甘さを知りました。


借金に例えるなら、誰かに立て替えて返済してもらったところで、きっとまた借りる未来が待っています。


何故なら『お金とギャンブルへの認知』を変える行動を取っていないからです。


僕も、親に借金の立て替えをしてもらった経験がありますが、結局は何も変わりませんでした。




もし、本心や悩みを打ち明けられる人がいるとするなら、こんなふうな経験をして、自分の足で歩こうと行動している人なんじゃないか、と思うに至ったわけです。


肩書きや名誉、お金や人望や出世は、きっとそういう「自信のない暗闇」から抜け出そうと行動した結果、自然と芽生えたものなんだ、と。


多分、立ちあがろうとするときに己の欲望を考える気持ちの余裕なんてなかったんじゃないか、と。



いっしょにいて落ち着く人とは、苦しみながら行動する経験を経て、意思と行動がいかに重要なのかを知っているのではないか、と。




僕が知る限り、そういう方々は、他人の問題の本質が見えたように感じたとしても、進んでズバズバと指摘するような真似は絶対にしません。



『自らが気付いて行動しないと、人生は変わらないこと』を知っているから、指摘(他人のきっかけを奪う行為)の愚かさも理解しているのだと感じます。




これは決して「放置」ではないように思います。


「見守る」をめちゃくちゃ薄めたような、相手からすれば「自分は見守られている」と感じることすらないような雰囲気を持っています。


「あなたのことを見守っています」というような意味合いの言葉を進んで伝えるのは、とても野暮なことだと思っているように感じます。



「放任」と「尊重」と「応援」をブレンドしたような感性を持つ人ですね。


そういう方は、僕のどんな選択も応援してくれますし、どんな行動も自己責任だと暗に伝えてくれますし、なによりまずは自分の幸せを最優先にしたほうがいいよ、と、言葉ではなく生き方で教えてくれているんですよね。



「依存症からの回復は、自分の責任で行動しなければ成り立たない」と悟ったとき、ふと周りにそういう輝きを密かに放っている方々の存在と、その方々にも辛く暗い過去があることに気付くことができました。




病院へ通うことも、自助グループへ行くことも、ブログを書くことも、TwitterやYouTubeを始めることも、そこで出会った依存症の当事者の方と実際に会うことも、自分の意思と責任に基づく行動でしかない。


だから僕も、安心して自分の責任を学ぼうと思うことができました。




その結果、僕は自分の選択に少しだけ自信を持てるようになりました。

この自信の根幹にあるのは、他人からの賞賛ではなく、自らの選んだ行動から生まれた多幸感です。


そうやって「他人に助けてもらうことを待つ生き方を辞めよう」と思うようになりました。




助けてもらうなら、自分から動いてみる。

これが本当に、本当に、大きかったです。

おかげさまで、今とても幸せです。


誰かの背中を追いかけた、というよりは、誰かが蒔いていてくれた種を拾って育てることができた、という感覚です。


その種を育てたのは僕の意思と行動なので、どんな芽が生えようが、責任は僕自身にあると確信しています。




だから僕も、自分に出来る範囲の種蒔きをしようと思って今日を生きているわけです。


「拾われるかどうか、役に立つかどうか」は正直どうでもよくて、種蒔きが自己の成長に繋がるのならそれで良くて、逆にそのくらいしか出来なくて、無理に背伸びをする必要もないのだ、と。