僕はギャンブル依存症である。


10歳の頃にゲームセンターで触れた『パチスロ』へのめり込み、そこから約20年間依存し続けてきました。


たくさん嘘をつき、たくさん借金もしました。


「ギャンブルを自己の意思でコントロールできなくなる病気」である依存症を患うと、ギャンブルのためだったら何でもするようになります。


まず、ゲーム機や書籍、大切にしていたものを売って軍資金を作り、負けると今度は生活費に手を出し、支払いが回らなくなると消費者金融の戸を叩く。



財布なんて、何度失くした(ことにした)かわかりません。


家族のお金を何度も盗みました。支払いが足りないと嘘を言って、当時の恋人との共同貯金を握り締めて、パチンコ屋へダッシュしたこともあります。


このように、ギャンブル依存症の大半が金銭問題とセットです。お金のトラブルから依存問題が露呈するケースも多い。


千円の価値は世間一般の意見とは程遠く、壱万円は夏場のアイス並の速さで、文字通り簡単に溶けていきます。

打っている本人でさえ「あれ?もうなくなっちゃったの?」と、思わず首を傾げるくらいに、その価値は薄いです。紙なのに、紙より薄いです。



故に、ギャンブル依存症から立ち直ろうとしたとき、この『お金への考え方』を変えていくことは、至極重要な要素の一つだと断言できます。




僕は、これをずーっと考えていました。


不義理を働いてきた方々への埋め合わせは必要ですが、散々騙して、振り回してしまった方々への罪滅ぼしとは、一体どのような形で示すのが良いのでしょうか。




ひとつは、まず借金を返済すること。

自ら作った負債は自ら返す。自分のケツは自分で拭く。立て替えてもらうなんて、ありえない。


必死で働き、働き、働き、労働の対価としてお金を頂く。仕事があることの有り難みが少しずつわかるようになれば、紙以下の雑な扱いをしてきたお金の重みは、嫌でも思い知ることになります。


ギャンブルまみれの澱んだ日々に比べれば、マジメに働く時間を、僕はむしろ尊いものだと感じるようになっていました。


自己破産や任意整理などの、国が用意した制度を使うことも考えましたが、僕にはせっせと働くことのほうが向いていたようです。


お金の重みを学び直しながら、借金を返していける。働ける環境があることに、感謝と喜びを覚えるようになりました。




この経験があったからこそ、僕の中で「家族にきちんと謝りたい」という気持ちが芽生えてきました。


でもね、気付いたんですよ。


20年続けてきたパチスロを、たかだか数年辞めている程度では、どんな謝罪の言葉も薄っぺらいものになってしまう、と。伝えるだけじゃダメだ。


僕の謝意を受け取るかどうかは、家族が決めること。僕が勝手に判断していいものじゃない。


僕に出来るのは『ギャンブルを辞め続けること』と『自分の幸せをしっかりと考えること』の2つしかない。その姿がいつの日か家族の目に留まり、結果として赦しに繋がるなら、と。


その期待も、待ったり抱きすぎるのも良くない。


心の中に、復縁や再構築の欲があると、行動の軸がブレてしまいます。

「家族に赦してもらうためにギャンブルを辞める」という、他人軸で生きる日々になってしまうわけです。


償いは自らの行動で示す。

僕に出来るのはこれだけなんだと思いました。






一つ提言したい。

ギャンブル依存症の当事者は、お金に苦しんだからこそ、もっとお金に貪欲になっていい。


お金で他人を苦しめた罪悪感のせいなのか、「自分は一生お金に触れてはいけない」くらいの感覚を植え付けようとしている人をよく見かける。




早く借金を返したいと願うほど、必死で働くようになります。

そうやってギャンブルを辞めていると、少しずつ、自然と他人に優しく接することができるようになります。


お金の価値を再確認する機会をきっかけに、失っていた「人の心」が蘇ってくるんです。




自分勝手に振る舞っていたギャンブル依存症の僕の頭の中に「人に喜んでもらいたい」という奉仕に似た精神が芽を出し始めました。


そのためにお金を稼ぎ、実際に使ってみるんです。

感謝の言葉とともに、お金を使ってみるんです。


「ありがとう」を伝える手段の一つに、お金があってもいい。そう思えたなら、そう行動すべきです。


お金を増やす手段は、もうギャンブルじゃない。



支出を減らすこと。これも大切です。

それと同じくらい大事なことがあります。



これを見失う人が多い。

自分を満たすためにお金を使うこと。




多幸感は行動の意欲へと繋がります。

そして、いずれは周りの人達へ還元する行動へ変化していくんです。


「自分を満たす行為が、他人を満たす行動の源泉になる」ということです。




つまり『お金は回る』。


例えば、僕が旅行をすると、自分で自分の心をケアすることになります。セルフケア。

元気になりながら、旅行を通じてお金の価値と使い方を学ぶんです。


すると、心に余裕が生まれるようになります。

自然とよく笑うようになります。自分でも不思議なくらいに。


その明るさで、大切な人に接したいと思うようになるんです。

家族の笑顔が見たい。心からそう考えるようになります。ごく自然に、他人にお金を使おうとするんです。




14年前からすれば、奇跡ですよ。


成人して以来、ギャンブルを優先するあまりに一度も姪っ子甥っ子に誕生日プレゼントやお年玉の類を出さなかった僕が、クリスマスプレゼントを送ろうという気になっているんですから。



健康な心と身体で、家族と会いたい。


ギャンブルしていた頃と比べたら、多少は優しくなれた気がするこの感覚を磨き続けたまんま、家族と会いたい。




そのためには、やっぱりお金は必要です。


「ギャンブルを辞め続ける姿勢を示す」とは、清いお金の使い方を学ぶということであり、お金の使い方を学ぶということは、稼ぎ方を知るということです。


いつまでも抽象的な綺麗事ばかり言っていられません。いっしょに過ごせる時間は限られています。


生きているうちに幸せを享受したいと思うなら、お金はその手段として最大限に利用すべきです。


「喜んでもらうために物で釣れ」と言いたいのではありません。

感謝の気持ちを、お金を使って表現してみよう、ということです。


手料理を作るのも、旅行を計画するのも、クリスマスプレゼントをサプライズするのも、お金が必要なんです。認めないと。



根底には、本心からの感謝が不可欠です。


ただ、お金がその感謝に色を添えてくれることもあるのだという事実は、お金を使うことでしか経験できません。


だから「お金をかけずに償いたい・償わないといけない」と決め付けて考えるのは、やめてほしいと思う。


あってもいいし、なくてもいい。

常にそのどちらも選べる状況を作っていくことが大切だと思います。


これも一つの白黒思考からの脱出かな。