「誰かのギャンブルを僕の力で止めてやろう」とか「心の支えや救いになろう」とか、そんなことを本気で考えて行動していた頃の自分に向けて言いたいことがある。


「そんなことはできないです。病人は病人らしく、まずは己の回復に専念なさい。」


まぁ、そう叱り飛ばしたところで当時の自分が素直に聞き入れるイメージを持つことができない。




多分、人の言葉を無視はできないだろうから、適当に受け流して、でも結局は今と似たような道を辿っていたと思う。




ギャンブルを辞め続けることは当人が選択して行動した結果なので、誰の功績かと聞かれたら「当事者本人」しかいないわけ。


行動や言葉が誰かに影響を与えて、その人の環境が変わるきっかけになる可能性はあるけど、そこをモチベーションの根幹にして動いてしまったら、必ずいつかは潰れる。僕の場合は。




自分の主義主張が他人に影響を及ぼす可能性なんて考えない。今すぐ捨てること。

それはギャンブルで勝ったお金よりも幻のようなものなので、永遠に掴めることはないです。




自分自身がギャンブルを辞め続けるために、今何をすべきなのかを考え続けることしかできないんよね。




その結果、最近いろんな人と会う機会に恵まれているけれど、根っこにあるのは「楽しく話せたらいいな」くらいの軽い考えとノリです。実はね。


なんというか、相手がギャンブル依存症の当事者だとしても、そうは思わない。そう接しない。


1人の人間として、大切な友人として会いたいと思う。


だから、会いたいと思う人を「ギャンブルをしているかどうか」で決めない。ネット上で会話してみて、素敵な人だなぁと感じる人に会う。


会ってくれている間は、僕はギャンブルをしなくて済む。逆にお礼を言いたいくらい。それくらい有り難いことなんよな。




当然、ギャンブル依存の話をすることになるんやけど、自分の辞め方へ誘導するような真似は死んでもしたくない。


僕は、医者でもないのに他人の回復を先導、誘導する人が嫌いなので、それだけはしないように心がけているつもりです。




哲学的な話になることも多い。本当に勉強になる。

そんな切り口があるとは、と毎回感心させられる。


お互いに己と向き合う者同士、これからも対等な立場でいたいと思う。




でも驚いたのは、YouTubeをしていると謎のフィルターがかかるということ。僕と会うのに「緊張しました」って言われることが起こるなんて思いもしませんでした。




慢心がなかったと言えば嘘になるから、こうやって綴ってるんよね。


天狗になって、誰かに偉そうな講釈を一方的に垂れるようになって、誰の忠告も聞き入れなくなったら僕も終わり。




自分のためにやっている、ということを忘れてはいけないと思う。

そうやって、会ってくれる方々に日々救ってもらってる。自助グループの仲間にも、Twitterの仲間にも。




「自分と絡んでる間は賭けずに済む」とか「これで止まってくれたらいいな」も、やっと考えないでいられるようになった。


依存のコントロールは当人の問題。

そこに悩んで、悩んで、悩んで、受け入れて、受け入れて、受け入れて。


目指すは「無」。そこについては触れない。そういう野暮な考えを起こさない自分を創っていくこと。




自分を変えられるのは自分だけで、他人を変える力は僕にはない。


ただ自分が助かる方法をひたすら選んで、思ったことを素直に話して、これからも行動していく。


それだけ考えていけばいいんだと思うんです。