こんにちは。



久々に書きます。
気分屋なので、気が乗らないとこんな感じで期間が空きます。





なんといいますか。

ギャンブル依存症について、日頃の気持ちなどを一方的に書き殴るだけのつもりで始めたブログが、いつの間にかギャンブル断ちも1年を越え、心境の移り変わりと共に、このブログの存在意義にも変化があるように感じています。





「ギャンブルを辞めるためのブログ」から
「ギャンブルを辞めて自分と向き合うブログ」へ




そんな感じです。





辞めて1年弱。


最近も、ギャンブルへの渇望対策や辞めていくことを考え続ける生活を送っていることに変わりはありませんが、それよりも思考の比重が「自分の生き方」について思案する方向へと傾きつつあります。





これまでの自身のことを振り返ると、常に生きづらさを感じていたことに気付きました。



今までギャンブルばかりしてきたので、自ら進んで生活や考え方を改めたり、人間関係を構築することが本当に疎かになっていました。そういう十数年間でした。



それが、ギャンブルのない生活が訪れたことによって、改めて目の前に壁となって現れてたような感覚です。
今まで逃げて、避け続けてきた問題が、ようやくくっきりと見えてきた。という感じ。




生きづらさの根本には、多分「僕の小さい頃の人格形成に何かしらがあって、その結果、依存しやすい人間に育った。」というところにあるのだ、と考えています。

それはつまり、ギャンブル依存の問題は僕の人間性を考える上では入り口にあるものでしかないんだ、と思ったわけです。







その背景には「AC(アダルトチルドレン)」の影響が大きいように思います。





僕は、恐らくACです。

世間からの、人からの見捨てられ不安。嫌われることを恐れる故の考え方や行動。
病的な承認欲求。自己を後回しにした他人への極度な世話焼き。



全て、当てはまります。
そして過去を振り返ったとき、それが原因と思われる失敗を数多く繰り返してきました。



他人に「良い人」と思われたいが故に、求められてもいない世話を焼き、相手からその見返りがないことに四苦八苦し、妄想し、独り勝手に潰れていく。





何度もそういう経験をしてきました。
己のメンタルを消費するような人間関係、恋愛。



恐らく、その逃避行動の一つとしてギャンブルがあったのだと思います。
承認欲求を満たし、嫌なことから一瞬でも逃げることのできる手軽な手段として。





正直、疲れました。

でも、その「自分自身の問題」をどうにかしない限りは、僕は今後もまた同じようなことを繰り返してしまうのだろう。と気付くことも出来ました。



住む土地も、仕事も、人付き合いも変わっているのに、いつも同じようなことで苦しむのなら、その原因は環境ではなく己自身にあるのだ、と。






だから、ギャンブルをしなくなったら、次は己の考え方や生き方を見直さないといけないんだ、と思っています。

これは、依存症当事者なら殆どの人が辿り着くのではないか、とすら思っています。
依存の根本的原因は、そのあたりにあると思うからです。







何のために己を変えるのか。

自分自身の生きやすさのために。
周囲の人といっしょに幸せになるために。
そして、これからもギャンブルを辞めていくために。





ギャンブル依存が己の性格や考え方、価値観に起因するとするなら、むしろここから向き合うこの問題の方が、ギャンブル依存よりも遥かに強大なものであると思います。



なにより、今まで長い間慣れ親しんだ生活、習慣、考え方にずっと縋っているほうが楽です。
新しいことを始めるのはストレスです。本音を言うなら、何もやりたくない。今まで通りでいたい。

誰だってそう思うはずです。僕もそうです。



でも、少しずつでも変えていかないと、またいつか苦しむんだ、とわかりきっているんです。それは嫌です。





「現状維持の道」と「変化を求める道」

どちらを選んでも、苦労するんです。

だったら、先行きの明るそうな方を選びたい。








そうやって、ここ数ヶ月を過ごしてきたのですが、なんとなくわかってきたことがいくつかあります。





その最たる例は「人は他人を変えられない」ということ。
これは、自身がギャンブルにのめり込んでいたときのことを思い返せばわかりやすいです。


周りからの「ギャンブルは辞めたほうがいい」「辞めてほしい」という意見や願いを、依存症当事者は無下にし、その時は聞き入れたつもりでも心の奥底では否定して、無視し続けてきました。


そして、ギャンブルを辞めたいという気持ちは確かにあるのに、周りからたくさんアドバイスを貰っているのに、辞められない苦しい時間を過ごしてきました。



辞められない理由は多々あるでしょうが、その中に「他人のお節介は要らない」と思われている方も少なからずいると思います。



どれだけ身を粉にして行動しても、その人が自ら気付き、動き、望まない限りは、その人を変えることは絶対に出来ない。
その機会が僕にあるとするなら、それは相手から縋るように助けを求めてきたときだけ。



だから、自ら世話を焼く必要はない。
最近はそう思うんです。



この「他人にとらわれない」という一点を意識するだけでも、随分と生きやすくなるものです。不思議なくらいに。






自己肯定感が低いんです。恐らく依存症当事者は特に。
ギャンブルにのめり込み、たくさんの人に迷惑をかけていたことを自覚すればするほど、「自分には価値がない。生きている意味がない」と思いがちです。

僕もそうでした。
それを、他人の世話を焼くことで紛らわせていたんだと思います。
そしてその「生きづらさ」の原因は、まずギャンブルを辞めることで少しずつ鮮明になってきます。




苦しんでギャンブルを辞めた後には、こうしたまた別の苦しさが待っていました。
依存症は中ボス。こっちがラスボス的な感じですね。



自分は自分。他人は他人。
人には人それぞれに問題や悩みがありますし、それらの中には当人が自らの力で解決しなくてはならないものも数多くあります。

それに気付かず「なにか手助けを」と躍起になって行動していた頃に比べれば、今はとても生きやすく感じます。



「悟る」という次元ではありませんが、これでいいんだろうな、と少しずつ思えるようになってきました。

苦しんでいる人に何もせず、見ているのは辛いですよ。
でも、その人からヘルプが来ない限りは、見守る。
それも愛情の一つなんだと思うようになりました。


Twitterで言うなら「いいね」を押すくらい。応援の意を込めて。




ギャンブルを辞めて2年目の、僕の課題。
己と向き合い、生きづらさの解消を。




まとまらない文章ですが、今回はこのあたりで。
ありがとうございました。