「平和利用」と「絆、復興」キャンペーン | 「子どもを守る結城市民」のブログ

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茨城県西地域から
ゆるゆるスタンスでできる事を継続していきます。
空気は読んでも流されない。

原爆を二つも落とされながらも、戦後私たちは「平和利用」というキャンペーンの下に核エネルギーを受け入れることになりました。

その行き着く先が東電福島第一原発事故。
しかし、またしても私たちは「絆」そして「復興」というキャンペーンの下に核への危機意識を薄められ、原発再稼動を受け入れる方向に導かれようとしています。

ある一つの原発が過酷事故を起こす確率は500年に一度、とか、1000年に一度、などと、以前そのようなことを小耳に挟んだことがあります。仮に1000年に一度の確率で過酷事故が起こるとすると、原発が50基ある日本では20年に一度の頻度で事故が起こる確率となります。5000年に一度としても、100年に一度の頻度で事故が起こる確率になります。

放射性廃棄物が無害化するまでに数十万年かかるといわれていますが、この時間的尺度から考えたら、原子力過酷事故は必然的に起こる事故といっても過言ではありません。

特に東電福島第一原発事故が収束しない状況で、更なる原発事故が日本で生じることになったら、物理的にも精神的にも、日本は終わってしまうのではないでしょうか。

私たちの中には、「エネルギーの安定供給のために原発は必要だ、経済のために原発は必要だ、原発関連企業で働く人の労働環境を維持するためにも原発は必要。」と、ノー天気に原発再稼動を許容する方々がいますが、この意識レベルは、「戦争を終結させるために原爆投下必要だった。米国人の犠牲を増やさないためにも日本本土への原爆投下は必要だった。」とする米国人の意識レベルと、あまり大差ないように感じます。

重ねて言いますが、核の過酷事故は必然です。
原爆と原発の違いは、直ちに死ぬ人が多いか少ないか、です。
人間の未熟さといった視点からすると、原爆も原発も同じものといっていいのかもしれません。

「平和利用、絆、復興」というキャンペーンの下、核利用システムとそれに群がる経済産業界を巻き込んだ利権集団により、私たち日本人の良心は狡猾に利用されてきました。

そろそろ、私たちは目を覚ます時です。

目先の経済や雇用よりも大切なものがあることに気付く時です。

もう、利用されるのはおしまいです。
もう、空気に流されることなく、自分で考え、自分で判断して行動するのです。