一人息子が昨年3月、亡くなり、私は自死遺族になりました。そして、かみさんも当然、自死遺族となりましたが、かみさんにとって、私は自死遺族の身内(ある意味他人)という立場にもなるようです。

当初、混乱、気の高ぶり、地獄の思いの中でしたが、それぞれがこの深い悲嘆を抜け出そうと努力している中で、それぞれの悲しみの土台が違っていることに気がつかされました。

毎日、子供と接する時間の長いかみさん、接するだけでなく、成長するにつれての母親としての関わりも私よりは深かったのだろうと思ます。個々の生活環境の違いからくる子供への思いも違っていたようで、今はほとんど子供への自責の念、罪悪感にさいなまれているかみさんです。私は子供に発信(仏壇の前で語る)し、周囲にも発信しています。

 そして、かみさんの気持ちを安らかにしてあげたいと願い毎日です。(これは自分も安らかになりたいと望んでいます。)

今は、私の子供への発言(親には止められなかった、今は安らかに眠っているから、供養するしかない。あまり悲しんでは、子供もあの世で泣いているよ等)がかみさんにはとても辛くなるようで、「もう、この話はしないで」懇願されてしまいます。また、私もかみさんの発言を聞くと、とてもとても落ち込みます。

 

今読んでいる書籍で、周囲の人の関わり方の中で「遺族(この場合かみさん)にとって、客観的事実が何であるかより、遺族(かみさん)がそれをどのように捉え、どう感じているかが重要である。事実と異なることを指摘しても、遺族にとってなんの助けにもならない」と記載されていました。これを読んで、「あぁ、私はかみさんにとって悲しみを共有しているようで、実はかみさんの悲しみの中には入っていけない人間なんだなぁ」と気づかされました。

 この考えも私の勝手な考えです。

すべてを話し合う(一方的に私の思いを伝える)ことは時期ではないような気がします。そして、夫婦二人でこのつらさを静かに過ごせるよう歩ければと望む毎日です。長くなり、整理できていませんが、読んでくださり感謝いたします。