おはようございます。

いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 

2024年8月9日、この日は朝から靖国神社を参拝し、そこから成田山新勝寺へ向かう途中で、神田明神に立ち寄りました。

 

靖国神社を出発し、車で15分ほど、距離にして3.2kmほど進んだところに神田明神があります。

 

今回の関東パワースポット巡りの中で、神田明神は以前から参拝したかった一社です。

 

ただ、後から歴史を調べてみると、この日の

 

「靖国神社 → 神田明神 → 成田山新勝寺」

 

という順番そのものが、思いがけず興味深い意味を持つ組み合わせだったことが分かりました。

 

それについては、記事の後半で触れたいと思います。

 

まずは、神田明神がどのような神社なのか、その歴史から順を追ってご紹介します。


                 御由緒

 

■ 神田明神とは|江戸・東京を守ってきた「江戸総鎮守」

 

神田明神の正式名称は「神田神社」といいます。

 

地元の方や参拝者からは古くから「神田明神」「明神さま」として親しまれてきました。

 

現在、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・豊洲市場など、東京の中心部108町会の氏神として崇敬されており、御祭神は次の三柱です。

 

・一之宮 大己貴命(だいこく様)
・二之宮 少彦名命(えびす様)
・三之宮 平将門命(まさかど様)

 

国造りの神である大己貴命。

 

その大己貴命とともに国造りを行ったとされる少彦名命。

 

そして、平安時代の武将であった平将門公。

 

性格の異なる三柱が並んで祀られているところに、神田明神の大きな特徴があります。


                  手水舎

 

■ 約1300年の歴史|大手町・将門塚から現在地へ

 

社伝によれば、神田明神は天平2年(730年)、出雲系氏族の真神田臣によって、武蔵国豊島郡芝崎村に創建されたと伝えられています。

 

この芝崎村は、現在の千代田区大手町、将門塚の周辺にあたります。

 

つまり神田明神と将門塚は、単に「平将門公つながり」というだけではありません。

 

神田明神の旧鎮座地そのものが将門塚周辺だったという、より深い歴史的な関係で結ばれています。

 

■ 平将門公は、なぜ神田明神に祀られているのか

 

平将門公は、承平・天慶年間の10世紀前半に関東で活動した武将です。

 

歴史上は、天慶2年(939年)に「新皇」を称して朝廷と対立し、翌天慶3年(940年)に討たれた人物として知られています。

 

将門公の御首については、京都で晒された後、故郷である東国へ向かって空を飛んだという有名な伝説があります。

 

一方、神田明神に伝わる資料では、京都へ運ばれた将門公の御首を所縁の人々が東国へ持ち帰り、塚を築いたとも伝えられています。

 

将門公の御首については、一つだけではなく、後世にいくつかの伝承が語り継がれてきたようです。

 

その後、将門塚が荒廃すると、天変地異や疫病などが相次ぎ、人々はこれを将門公の御神威として恐れたと伝えられています。

 

そこで時宗の真教上人が将門公の御霊を慰めるために供養を行い、延慶2年(1309年)、将門公は神田明神の御祭神として奉祀されたとされています。

 

神田明神における将門公への信仰は、

 

「恐れられた存在」

 

から、

 

「鎮魂・供養」

 

を経て、

 

「地域を守る神としての信仰」

 

へと変化してきたことになります。

 

単に「怖い怨霊を封じ込めるための神社」という説明だけでは、この長い歴史を十分に表すことはできないように思います。

 

なお、神田明神では平将門公を単純な「朝廷への反逆者」としてではなく、関東で改革を志し、民衆を守ろうとした武士として紹介しています。

 

これは神田明神における信仰上の位置づけであり、歴史学上の平将門像とは分けて理解しておきたいところです。

 

■ 徳川家康と「江戸総鎮守」神田明神

 

神田明神の歴史を語るうえで欠かせないのが、徳川家康との関わりです。

 

神田明神の由緒によれば、家康は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して神田明神で戦勝祈願を行いました。

 

関ヶ原の決戦の日である9月15日が神田祭の日と重なったことから、以降、徳川将軍家から縁起の良い祭礼として篤く崇敬されるようになったと伝えられています。

 

江戸幕府が開かれると、神田明神は幕府からの尊崇を受けるようになります。

 

元和2年(1616年)、江戸城の拡張にともない現在の場所へ遷座しました。

 

現在地は江戸城の表鬼門を守護する場所にあたり、以後、幕府だけでなく江戸の庶民からも「江戸総鎮守」として篤く信仰されてきました。

 

約1300年の歴史を持つ神社が、江戸という新しい都市の発展とともに、さらに大きな役割を担うようになったことが分かります。



                隨神門

 

■ だいこく様・えびす様・まさかど様|三柱の御祭神と御神徳

 

大己貴命(だいこく様)は、出雲の大国主命の別名とされ、国造りの神として知られています。

 

神田明神では、国土経営、夫婦和合、縁結び、医薬などの御神徳で信仰されています。

 

少彦名命(えびす様)は、大己貴命とともに国造りを行ったとされる神様です。

 

神田明神では「えびす様」として、商売繁昌、医薬健康、開運招福などの祈りが寄せられています。

 

ただし、全国的に「恵比寿神」というと事代主命を指す場合もあります。

 

そのため、

 

「神田明神では少彦名命をえびす様として祀っている」

 

と理解するのが分かりやすいと思います。

 

平将門命(まさかど様)については、神田明神では除災厄除の神様として信仰されています。

 

「勝負運」「仕事運」といった紹介もよく見かけますが、まずは将門公が除災厄除の神様として祀られていることを知っておきたいところです。

             狛犬                       狛犬

 

■ 本殿から一時遷座された平将門公

 

神田明神の長い歴史の中では、平将門公の祀られ方が変わった時期もありました。

 

明治7年(1874年)、平将門霊神は本殿から大国主神祠内へ仮遷座され、同じ年に少彦名命が本殿へ奉祀されました。

 

その後、明治11年(1878年)には境内に将門神社が竣工しています。

 

明治天皇が神田神社へ御親拝になったのも明治7年です。

 

この時期の祭神変更については、明治政府の祭祀政策や、それまで「朝敵」とされてきた平将門公の立場などを背景として説明されることがあります。

 

そして昭和58年(1983年)、平将門命は三之宮として再び神田明神の御祭神へ復座しました。

 

現在、私たちが神田明神でお参りする三柱の御祭神は、こうした歴史を経て現在の形になっています。

 

■ 江戸の町を巡る「神田祭」

 

神田明神の祭礼といえば、神田祭です。

 

神幸祭では、一之宮・大己貴命、二之宮・少彦名命、三之宮・平将門命の御神霊を乗せた鳳輦・神輿などが、氏子108町会を約30kmにわたって巡行します。

 

江戸時代には将軍家から特別な保護を受け、山王祭とともに「天下祭」と呼ばれるまでに発展しました。

 

徳川家康の戦勝祈願。

 

江戸総鎮守としての歩み。

 

そして神田祭。

 

一つずつ歴史を追っていくと、神田明神が江戸の町と深く結びつきながら発展してきたことがよく分かります。


                  御社殿

 

■ 戦災を耐え抜いた御社殿と、神田明神の境内

 

現在の御社殿は、関東大震災が起きた大正12年(1923年)に、それまでの社殿が焼失した後、昭和9年(1934年)に再建されたものです。

 

当時としては画期的だった鉄骨鉄筋コンクリート造・総朱漆塗で建てられています。

 

設計には大江新太郎氏・佐藤功一氏が携わり、伊東忠太氏が顧問を務めました。

 

この構造の選択は、後に大きな意味を持つことになります。

 

第二次世界大戦の東京大空襲では、境内の多くの建造物が焼失した一方、耐火構造で造られた御社殿は、わずかな損傷で戦災を耐え抜いたと神田明神では伝えています。

 

現在、

 

・本殿
・幣殿
・拝殿
・神饌所
・宝庫
・瑞垣
・東門
・西門

 

の8件が国の登録有形文化財となっています。

 

境内でひときわ目を引く隨神門は、これら8件の登録有形文化財とは別の建物で、総檜・入母屋造の立派な門です。

 

境内にはこのほか、だいこく様尊像、えびす様尊像、獅子山、神馬などがあり、境内社として、

 

・江戸神社
・魚河岸水神社
・祖霊社
・末廣稲荷神社
・三宿・金刀比羅神社
・浦安稲荷神社
・大伝馬町八雲神社
・小舟町八雲神社

 

などが祀られています。

 

江戸神社は建速須佐之男命を祀り、神田祭では大きな千貫神輿が登場することで知られています。

 

魚河岸水神社は、日本橋魚河岸から築地、そして豊洲へと続く市場の歴史ともつながる神社です。

 

神田明神の境内を歩くだけでも、江戸から現在の東京へ続くさまざまな歴史に触れることができます。

 

また、境内には「銭形平次の碑」もあります。

 

もちろん、銭形平次は実在した人物ではありません。

 

野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』の主人公が「神田明神下」に住む岡っ引きという設定だったことから、有志の作家や出版社によって碑が建てられました。

 

こうした少し意外なものに出会えるのも、神田明神の面白いところです。

 

■ 秋葉原とIT守護|現代文化を受け入れる神田明神

 

神田明神は秋葉原を氏子地域に含んでおり、現在は「IT情報安全守護」という、現代ならではのお守りも授与されています。

 

コンピューターの安全や情報漏洩防止などを願うもので、約1300年の歴史を持つ神社が、現代のIT社会に対応した祈りまで受け入れていることには驚かされます。

 

秋葉原という土地柄もあり、アニメや漫画などとのコラボレーション企画も行われてきました。

 

古いものをそのまま保存するだけではなく、時代とともに新しい文化も受け入れてきたところに、神田明神らしさがあるのかもしれません。

 

このほか、女優の羽田美智子さんが長年参拝を続けていることや、AKB48グループが神田明神で新成人メンバーの成人式を行ってきたことでも知られています。

 

インターネット上では、

 

「東京最強のパワースポット」

 

「金運に強い神社」

 

などと紹介されることもあります。

 

約1300年の歴史。

 

江戸総鎮守としての由緒。

 

徳川家康の戦勝祈願。

 

平将門公への信仰。

 

商売繁昌や仕事、金運への祈り。

 

そして現代のIT守護。

 

こうしたさまざまな背景が重なり、現代では「強いパワースポット」というイメージにもつながっているのだと思います。

 

■ 将門塚と「祟り」の噂について

 

神田明神を語るとき、将門塚にまつわる噂も避けて通れません。

 

将門塚は神田明神の旧鎮座地と深い関係を持ち、平将門公の御首を祀る場所として伝えられています。

 

神田明神では現在も将門塚で例祭を斎行し、氏子総代や周辺企業、史蹟将門塚保存会などが参加しています。

 

神田祭でも将門塚で奉幣の儀が行われており、神田明神と将門塚は、単なる別々の観光地という関係ではありません。

 

将門塚をめぐっては、

 

「壊そうとすると祟りが起きる」

 

という話がよく知られています。

 

この噂には、実際に起こった出来事が背景にあります。

 

関東大震災後の大正13年(1924年)、大蔵省の仮庁舎を建てる際、将門塚が壊されました。

 

その後、大蔵大臣の早速整爾や工事部長の矢橋賢吉が亡くなるなど不幸が続き、

 

「将門公の祟りではないか」

 

という噂が広がったとされています。

 

昭和2年(1927年)には鎮魂碑が建てられました。

 

戦後にも、塚を整地しようとした際にブルドーザーが横転し、運転者が亡くなったという記録があります。

 

ただし、

 

「こうした事故が実際に起きたこと」

と、

「それが将門公の祟りによって起きたこと」

 

は別の話です。

 

確認できるのは、事故や関係者の死が重なったことで、祟りの噂が広がっていったという歴史です。

 

また、

 

「大手町の企業では、将門塚に背を向けて座らないよう机を配置している」

 

という話もよく語られているそうです。

 

一方、史蹟将門塚保存会に大手町周辺の企業が参加し、現在も将門塚を大切に守っていることは確認できます。

 

噂だけが一人歩きしているのではなく、将門公への敬意や信仰が現在の大手町にも受け継がれていることは、とても興味深いところです。

 

■ 桜井識子さんが語る平将門公

 

スピリチュアルな案内人として知られる桜井識子さんも、著書『神さまと繋がる神社仏閣めぐり』などで神田明神を取り上げています。

 

桜井識子さんは、将門公にまつわる怨霊説が本当なのかを確かめるために取材したとしたうえで、ご自身の見方として、

「将門公は怨霊ではない」としています。

 

また、将門公について、男気がある、頼りがいがある、真っ直ぐ、懐が深い、潔いといった印象を綴っています。

 

2018年のブログでは、再び神田明神を訪れた際、将門公が「神様になられた」と感じたことや、境内全体の波動が統一されたように感じたことも、ご自身の霊的な体験として紹介されています。

 

桜井識子さんは夜の神田明神も訪れており、夜でも将門公が参拝者を見守っていたという印象や、仕事の悩み、人間関係、一日の感謝などを伝えに来る参拝者についても書かれています。

 

これらは、あくまで桜井識子さんご自身の霊的な体験や見解です。

 

神田明神の公式な説明と同じものとして扱うことはできませんが、「怨霊」という怖い側面ばかりが語られがちな平将門公について、まったく異なる見方があることを知るきっかけにはなると思います。

 

■ 神田明神と成田山新勝寺は、同じ日に参拝してはいけない?

 

冒頭で触れた、

 

「神田明神 → 成田山新勝寺」

 

という今回の順番について、後から調べて興味深い話を知りました。

 

インターネット上では、

 

「神田明神と成田山新勝寺は同じ日に参拝してはいけない」

 

という話がよく語られています。

 

この俗信には、実在する歴史的な背景があります。

 

成田山新勝寺の由緒によれば、天慶2年(939年)、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が不動明王像を関東へ持って下向し、平将門の乱が鎮まるよう21日間の護摩祈祷を行いました。

 

結願の日に将門公が敗れ、その後「新勝寺」の寺号が与えられたとされています。

 

一方、神田明神では、その平将門公を三之宮として神様として祀っています。

 

つまり、

 

「平将門の乱平定を祈願した寺」

と、

「平将門公を御祭神として祀る神社」

 

という、対照的な歴史を持つ二つの寺社ということになります。

 

ただし、神田明神と成田山新勝寺、双方の公式情報を確認した範囲では、

 

「同日に参拝してはいけない」

「両方を参拝すると災いが起きる」

 

といった公式な禁止事項は確認できませんでした。

 

私自身は、この日そうした話をまったく知らないまま、神田明神を参拝した後、そのまま成田山新勝寺へ向かっていました。

 

後から歴史を調べて、このような話があることを知った時は少し驚きました。

 

もちろん、実際に何か悪いことが起きたわけではありません。

 

むしろ、平将門公という一人の武将が、場所や時代、信仰によってまったく異なる形で語り継がれてきたことを知る機会になりました。

 

■ この神社は、こんな方におすすめです

 

神田明神は、東京の中心部にありながら、古代から現代までの歴史が幾重にも積み重なった神社です。

 

次のような方には、一度訪れてみる意味のある場所だと思います。

 

・江戸の歴史や、徳川家康と江戸総鎮守の関わりに興味がある方
・平将門公という人物と、その信仰の変化について知りたい方
・商売繁昌や仕事、金運などを願って参拝したい方
・IT守護など、現代的な祈りの形にも触れてみたい方
・秋葉原という土地と、伝統的な神社文化とのつながりを感じてみたい方
・将門塚や神田祭など、江戸から現在まで続く歴史を知りたい方

 

何を目的に訪れる場合でも、三柱それぞれの神様に手を合わせ、江戸の町とともに歩んできた長い歴史を知ってから境内を歩くと、見え方も少し変わってくるのではないでしょうか。

 

■ 位置関係・アクセス

 

神田明神の所在地は、東京都千代田区外神田2-16-2です。

 

最寄駅からは、

 

JR御茶ノ水駅・聖橋口から徒歩約5分。

 

JR秋葉原駅・電気街口から徒歩約7分。

 

東京メトロ御茶ノ水駅、新御茶ノ水駅、末広町駅からも、それぞれ徒歩約5分ほどです。

 

参拝者用の駐車場もありますが、台数は多くありません。

 

私の参拝記録にも、駐車場はあるものの、イベントなどが行われている場合には利用できないことがあると残していました。

 

車で訪れる場合は、この点も考えておいた方がよさそうです。

 

そして、神田明神でありがたいと感じるところの一つが、夜間でも境内を参拝できることです。

 

日中に時間を取りにくい方や、仕事帰りに手を合わせたい方でも参拝することができます。

 

桜井識子さんも夜の神田明神について書かれていますが、夜間に参拝できること自体は、スピリチュアルな話とは別の実用的な魅力だと思います。

 

ただし、御神札・御守の授与や御祈祷、文化交流館などにはそれぞれ受付時間があります。

 

今回のルートでは、靖国神社から車で約15分、3.2kmほど移動して神田明神へ到着し、参拝後は成田山新勝寺へ向かいました。

 

また、神田明神の旧鎮座地と深い関係を持つ将門塚は、大手町方面にあります。

 

周辺には湯島聖堂や神田川、秋葉原の電気街などもあり、神田・御茶ノ水・秋葉原周辺を歩きながら巡ることもできます。

 

駐車場の利用状況や御祈祷・授与所などの受付時間、祭礼・行事の日程は変更される場合がありますので、最新情報は神田明神の公式案内でご確認ください。

 

■ まとめ|平将門公と江戸の歴史が重なる神田明神

 

神田明神は、天平2年の創建から、平将門公の鎮魂と信仰、徳川家康と江戸総鎮守、明治期の祭神変更と昭和58年の復座、そして現代のIT守護やアニメ文化とのつながりまで、長い時間をかけて姿を変えながら受け継がれてきた神社でした。

 

なかでも印象に残ったのは、平将門公という一人の武将が、

 

「恐れられた存在」

 

から、

 

「地域を守る神」

 

へと信仰の形を変えながら、現在まで大切に祀られていることです。

 

将門塚の祟りの噂。

 

成田山新勝寺との歴史的な対照。

 

桜井識子さんが語る将門公の姿。

 

そこには、史実、伝承、信仰、現代のスピリチュアルな解釈が重なっています。

 

それぞれを分けて見ていくことで、平将門公と神田明神という場所を、もう少し深く知ることができたように思います。

 

後から歴史を調べるほどに、この神社にはまだまだ知るべきことがあると感じました。

 

また、昼だけではなく夜にも参拝できる神社であることも、東京の中心部で多くの人々の祈りを受け止めてきた神田明神らしいところなのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

この記事が、あなたを次の旅へと、背中をやさしく押せますように。

 

どうか良い一日をお過ごしください

 

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