生活保護法の改悪案が明日採決されますが、この法案の改悪で


申請者に書類提出の義務を負わせる

扶養義務の強化

▽保護利用者への就労の強要


―などが盛り込まれています。

特に上の2つを良く覚えておいてから、今日のブログを見て下さい。




今回はタイトルのこちら から文章の一部を引用します。


生活困窮者への支援活動を続けるNPO「もやい」の稲葉剛さんの話によると、この法案の特徴である「扶養義務」に関する議論は、実は60年以上前にすでに決着がついているとの事で、次のような事を言いました。



(引用開始)


現在の生活保護制度が制定されたのは1950年ですが、その前に、1946年制定の旧生活保護法という法律がありました。そこには、扶養義務者である親族に経済的な余裕があって扶養できる人は保護の対象から外す、という欠格条項があったんです。それが1950年の改正で削除され、扶養義務は受給の「要件」ではなく受給に「優先する」という書き方になった。
 つまり、親族による扶養は生活保護に優先するけれども、保護を受けるために「親族の扶養が受けられない」ことを申請者が証明する必要はないということ。当時の厚生省社会局保護課長・小山進次郎は、海外諸国の制度を調べた上で、先進国では徐々に扶養を家族間に任せるという考え方から国が責任を持つという考え方に進化してきている。この法律にもその考え方を採用した、と述べています。


(引用終了)



(赤色に塗りつぶさないけど)今日の重要なのは↑のコメント。

1回だけじゃなくて3回読み直す事をオススメします。


一例を言うと、昔ある芸能人の母が生活保護を受けていた話題がありましたが、この件に関して言えば、別に悪い事ではないのです。


悪いのはある芸能人を不正受給と叩いた



片山さつき

片山さつき

片山さつき



が悪いのです!



(ある芸能人も売れっ子でガンガン稼いでガンガン税金を納めているんだから、尚更だと思うんだけどね。)

おととい、大阪で母子が餓死をしていたニュースがありました。

皆さんも記憶に新しいと思います。


今日のニュースで、餓死した母子は昨年7月に生活保護の相談を受けていたそうです。


生活保護とは言っても、そもそも誰でも受ける権利です。

それがいつの間にか「スティグマ」のような扱いを受けているほど、日本人はあまりにも生活保護に対して知識が無さ過ぎると感じました。

(詳しい事は後ほどブログに書きたいと思います)




今回は大阪で母子が餓死した事件で、ある人がツイッターでとんでもない事を言ったのです!

詳しい内容はこちら (注:まとめブログ)からどうぞ。



Phantom ‏@tdfab
不謹慎を承知で言わせてもらう。

生活保護でのうのうと暮らす在日糞韓国人、在日糞朝鮮人ども。

少しはこの親子を見習え。

死ぬのが嫌なら祖国へ帰れ。

RT <大阪母子死亡>「もっと食べさせたかった」母親のメモ発見(毎日新聞) -

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130527-00000034-mai-soci



餓死で亡くなった母親と子供は贅沢をしたいわけじゃないて、人間らしい生活を送りたかっただけです!

それをこんな暴言を吐けるなんて、本当に人間の心があるのでしょうか?

日本人とか在日韓国人(朝鮮人)以前に人間として問題があります!!



平気で相手を傷つける人間が

「『日本』が大好き」

「愛国者」

とか言って欲しくないね!!

少なくとも国を良くしようとしている人たちは(政治に関係なく)いるでしょう。

お国の為に、じゃなくても地域の人と清掃など交流をしている人だってたくさんいます!


本当に日本を思って考えているのなら

「生活保護を申請した母親を断った役所」

に対して怒るべきだろうし、生活保護法を改悪する事で(実質的に)生活保護を受けづらくなるしようとする自民党を中心とした連中に対して怒るべきです!!




最後にツイッターでこういう意見があったので紹介します。

どんな最低のダメ人間でも、その国に生まれてきた以上、餓死はさせない、ってのが、国が国として存在する根本理由の一つだと思う。」



暴言を吐いた例の人がこの意見を見て人間として恥ずかしくない生き方をして欲しいです。

前回の続きです。



戦後、中原淳一は「それいゆ」を創刊します。

戦後ですから、当時はもちろん食べる事で精一杯の時代ですね。



そういう時代だからこそ、「それいゆ」を創刊した中原淳一は英断と言えるでしょう!



「それいゆ」はファッション雑誌というジャンルにとどまらず、贅沢をしなくてもオシャレができたり、6畳一間を暮らす工夫や、普段から女性らしさ(と言うよりも、内面的な美しさって言った方がいいかも)を身に付けるよう提案したりしました。


たぼくん土佐日記

以前のブログで紹介した右側のような感じね。


「それいゆ」の他に「ひまわり」「それいゆジュニア」が創刊され、当時の女性と女の子を夢中にさせました。




中原淳一の職業は色々な肩書きがあるんですが、肩書きだけでは語れないほど彼は凄すぎると思うのです!!

本人も仕事で充実した生活を送っていたのですが、あまりにも激務の為心筋梗塞を起こし入院していました。

もし彼が病気を患わなかったら、もっともっとファッションや女性らしさの提案をしていたと思います。




ファッションはもちろん、部屋を美しくする工夫や女性のしぐさなどは今でも通用しますし、特に10代~20代の女性は是非「それいゆ」を見ると良いでしょう!

正直家庭科の教科書に載せても良いくらいなんだけどね。






ちなみに戦前の絵と戦後の絵を比べると絵の雰囲気が違うので、それらを比べてみると面白いと思います。

前回、私が中原淳一展に行った話をしました。

今回は多くの著名人や女性たちに影響を与えた中原淳一について話したいと思います。



とは言ってもwikipediaで調べればいい話だけどね。(笑)



前回のブログで10年ほど前からある程度知っていましたが、テレビ番組で中原淳一の生涯などを紹介するまでは詳しい事は分かりませんでした。



中原淳一が生まれた当時・・・というよりも普通の男の子は外で行ってやんちゃに遊ぶでしょう。

しかし彼は姉たちの影響で人形で遊んだりする内気な少年だったそうです。


今でも男の子が人形遊びってあまり良い感じはしないでしょう。

当時の時代だと尚更だと思います。


だけど、母親や姉たちから深い愛情を受けたからこそ本人は自分らしく生きれたし、後に「それいゆ」「ひまわり」などを作れたんだと断言できます!!



まさに奇跡、としか言いようがないッス!!



中原淳一がフランス人形の個展を開催した事を機に、「少女の友」の専属画家として表紙&挿絵を手がけるようになったが、当時の少女たちの画一的な服装を見てショックを受けた中原淳一は、今で言うファッション雑誌の基礎を築いたりしました。


しかし戦時中は軍部に睨まれ、一時イラストが描けない時期がありました。

女性はもんぺを着ざるを得なかった当時でも、中原淳一は

「もんぺを如何にオシャレに見せるか?」

という内容をテレビで見ました。



この人、マジでスゴイっすよ!!



私は彼について戦後の「それいゆ」「ひまわり」のイメージしか知らなかったから、戦前はこんなスゴイ事をしてたのは本当に衝撃だったね。


(というわけで戦後編へ続くッス。)






これを書く途中で、

「中原淳一の生涯を紹介したテレビ番組をもう1回見たいな!

って思ってしまったwww

テーマが普段使う事の無い「女子力アップ」です!(笑)




先週の土曜日、この展覧会の為にアンパンマンミュージアムに行って来ました。

目的は中原淳一展なので、今回はアンパンマンミュージアムは省略です。



アンパンマンミュージアムの近くに詩とメルヘン絵本館という建物があり、4月10日~5月20日まで「生誕100周年記念 中原淳一展」のイベントが行われています。

ちなみに中原淳一展は四国では初、らしいです。


私が23歳の頃にこの人を知ったのですが、

「世の中にはこんなスゴイ人がいるんだ!」

と一人で感動したのです!!



それはさておき、私はアンパンマンミュージアムを見た後に中原淳一展に行って来ました。


たぼくん土佐日記

右の部屋は中原淳一が『ひまわり』で提案した少女のための部屋が会場内で再現をしたものです。

ちなみに和室ではなく洋風(今風?)にアレンジしているそうです。


左のドレスはファッションデザイナーの丸山敬太氏が今回の為に再現したドレスです。

こちらは『七人のお姫さま』(大光社、1968年)の裏表紙原画を元に再現したのです。




あと家族連れが多かったですね。

まぁアンパンマンミュージアムのついでだと思うけど。(笑)

小さい女の子とその母親も見かけましたが、小さい女の子の方はさすがの退屈してた様子でした・・・。

中には怖い怖い!って言ってた女の子もいたなぁ・・・。


もちろん50~60代の女性もいました。

話を聞くと、その女性たちは若い頃に『それいゆ』か『じゅにあそれいゆ』などを見て育ったような感じでしたね。




四国初の中原淳一展で、まさか高知県で見れるとは思わなかったよ。

本当にありがたや、ありがたや。




ちなみにアンパンマンの作者やなせたかし氏は中原淳一を大変尊敬しているそうです。


(オマケの画像)


たぼくん土佐日記