社会での 言ってしまえば『偏見』代表選手

『刺青の人は怖い』という気持ち なぜ起きるのか

なんで怖いのか? 考察してみた件 を話そっかな




怖い と思うまでの 心の動きがある

刺青を入れる とは? 誰も分かるように

この『社会』という枠の中で 静かに生きずに

デメリットを背負うのに ほぼデメリットの世界に

自ら 踏み込んで行く人の気持ちが『理解』できない

と!言うよりも 理解する為の『観念』を持ち合わせていない。

つまり怖いのは 刺青や 刺青を入れてる『人』ではなく その行為に至ることのできる『覚悟』に対してなんだと思う。自分の観念では計れない『覚悟』のような何か… そこをできてしまう 自らそこにたどり着く『人』への恐怖ではなく『観念』への恐怖

だと思う。


僕自身 刺青を背負っているけど、顔に刺青をしてる人を見ると 自分の姿を忘れ『怖い』と思ってしまうんだよね。瓜田とかね

そこは 顔に彫る!という『覚悟』が僕の中に

『観念』としてないのだよ… 言ってしまうなら

どうにも隠せないよ? 的なね そこに辿り着ける

『覚悟』を持つ『観念』を持ち合わせてる!

そこに 自分の『観念』とは違うことに対する怖さなのだと思う。『人』としては 話したり 付き合ったら めっちゃいい人で 優しい人なのかもしれないわけであることは みんな承知の事だろう。


人を殺める という行為も 極端に感じるかもしれないが、これも『観念』であり 殺めれば 人の世界に存在する以上どえなるのか? は明白で… それでも

行為に身を任せる 『覚悟』であるのかもしれない。

その『観念』や『覚悟』は 持ち合わせてる人も少なく 理解しようとも思えない 思わないことが普通なのだと… これが秩序として 人として人の中で生きるうえでは必須なのだ。『罪を憎んで人を憎まず』

とは ともすれば 怖いのは『人』ではなく その

『観念』や『覚悟』自分が持ち合わせていないモノへの 恐怖や嫌悪感なのではないか?と思う。


極端な2例で話しをしたけど

結論!! 己のみの『観念』で尺度で

己のモノサシで そこにある己の単位のみで

人を測ることは 愚かであると 僕は思う。

2つ目の話しは 『法律』というモノサシで決められているので 人として生きるならば 守らなくてはならない!事なのだが… 『観念』として『覚悟』をもってすれば… そこもまた違って見えてくるのではないか?

北のミサイル 僕は非常に腹立たしい!

同じモノサシと単位を持つ人なら同じ気持ちだと思う。が!存在するのだよ 実行され続けている。

それは日本を出て 世界になったモノサシで測れば

必ずしも 『悪』とはとらえないモノサシもまた

存在するということなのだろう


人として 人の中で生きる という難しいことを

僕たちは 毎日毎日 繰り返してるんだよね〜

ホントに 難しいこと それでも人だし 生きねば!


ByeBye