エレミヤ2章23~37節、詩篇80篇8~16節、フィリピ2章14~18節、3章1~4節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 2:23 どうして、お前は言い張るのか わたしは汚れていない バアルの後を追ったことはない、と。見よ、谷でのお前のふるまいを 思ってみよ、何をしたのか。お前は、素早い雌のらくだのように 道をさまよい歩く。
 2:24 また、荒れ野に慣れた雌ろばのように 息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。誰がその情欲を制しえよう。彼女に会いたければ、だれも苦労はしない。その月になれば、見つけ出せる。
 2:25 素足になることを避け 喉が渇かぬようにせよ、と言われても お前は答えて言う。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国の男を慕い その後を追います」と。
 2:26 盗人が捕らえられて辱めを受けるように イスラエルの家も辱めを受ける その王、高官、祭司、預言者らも共に。
 2:27 彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い 石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け しかも、災難に遭えば 「立ち上がって わたしたちをお救いください」と言う。
 2:28 お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ 災難に遭ったお前を救いうるのならば。ユダよ、お前の神々は 町の数ほどあるではないか。
 2:29 なぜ、わたしと争い わたしに背き続けるのか、と主は言われる。
 2:30 わたしはお前たちの子らを打ったが 無駄であった。彼らは懲らしめを受け入れなかった。獅子が滅ぼし尽くすように お前たちは預言者を剣の餌食とした。
 2:31 この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。どうして、わたしの民は言うのか。「迷い出てしまったからには あなたのもとには帰りません」と。
 2:32 おとめがその身を飾るものを 花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れ 数えきれない月日が過ぎた。
 2:33 なんと巧みにお前は情事を求めることか。悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。
 2:34 お前の着物の裾には 罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。それは、盗みに押し入ったときに 付いたものではない。それにもかかわらず
 2:35 「わたしには罪がない」とか 「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うなら お前は裁きの座に引き出される。
 2:36 なんと軽率にお前は道を変えるのか。アッシリアによって辱められたように エジプトにも辱められるであろう。
 2:37 そこからも、お前は両手を頭に置いて出て来る。主はお前が頼りにしているものを退けられる。彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。

詩篇 80:8 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。
 80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。
 80:10 そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。
 80:11 その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。
 80:12 あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせられました。
 80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
 80:14 森の猪がこれを荒らし 野の獣が食い荒らしています。
 80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
 80:16 あなたが右の御手で植えられた株を 御自分のために強くされた子を。

フィリピ 2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
 2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
 2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

 3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
 3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
 3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
 3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

 

 

フィリピ人への手紙は「喜びなさい」といった「喜び」に関する言葉が何度も用いられている。

しかし、大切なことは、ただ喜べばいいというわけではなく「主にあって」「喜びなさい」ということであろう。

この世には、一見、楽しそうなこと、面白そうなことはたくさんあるし、それらを用いて、一時、喜ぶことはできるかもしれない。

けれど、それらの多くは、喜ぶためにいくらかの費用が必要だったり、ともすると、それらの手段を通して人々からお金を巻き上げるために提供されているものも多く、それゆえ、気づかないうちに、人を破滅へと導く娯楽であったり、快楽であったりする。

娯楽や快楽は、直接的な偶像礼拝ではないにせよ、本質は偶像礼拝と同じであろう。

一方で「主にあって喜ぶ」ということは、イエス様の十字架の贖いと復活によって与えられる救いの約束による喜びであり、それは、神が与える恵みによるものである。

私たちから喜びと引き換えになにかを奪うようなおのではなく、神が無償の恵みを与えてくださることによって得られる喜びであり、人が本当の意味で生きたものとなる喜びである。

私たちは、そのような喜びに生きる者として神の恵みをいただくのである。

感謝なことである。

幸いなことである。

喜ばしいことである。