列王記上18章17~19,30~40節、詩篇85篇9~14節、使徒18章24~28節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記上 18:17 アハブはエリヤを見ると、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言った。
 18:18 エリヤは言った。「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。
 18:19 今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」

 18:30 エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。
 18:31 エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、
 18:32 その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。
 18:33 次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、
 18:34 「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。
 18:35 水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。
 18:36 献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。
 18:37 わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
 18:38 すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。
 18:39 これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
 18:40 エリヤは、「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した。

詩篇 85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 85:10 主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 85:11 慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし
 85:12 まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。
 85:13 主は必ず良いものをお与えになり わたしたちの地は実りをもたらします。
 85:14 正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。

使徒 18:24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
 18:25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
 18:26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
 18:27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
 18:28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。

 

 

 

当然のことながら、旧約聖書の時代の預言者たちは、イエス様のことは知らない。

しかし、イエス様を救い主と送られる神は知っている。

彼らは、真の神がどのようなお方で、人々を救うために働いておられるお方であられるということをよく分かっていたのだろう。

少なくとも、真の神の語られる言葉に従って生きていけば、命と平安が与えられることを知っていたはずである。

救いをもたらすとは、そういうことなのだろう。

私たち人間は、みな同じように生きているように見えて、イエス様のことを知らずに生きている人たちは、人が何のために生きているのかということを知らないし、それゆえ、多くの不安や恐れを抱いたまま、滅びに至る道を生きており、それは本当の意味で生きているとは言えないだろう。

本当の意味で生きている人とは、神様が与えられると約束された真の命と平安をいただいて生きている者である。

そうすれば、もはや私たちが永遠に滅ぼされることはなく、本当の平安と喜びの中を歩ませていただけるであろう。

そういう意味で、今日わたしたちがどんな人生を生きようとも、まずは真の神様の約束された救いと命をしっかりと受け留め、神と共に歩む人生を歩み続けていきたいものである。