イザヤ52章1~6節、詩編65編10~14節、ヨハネ12章44~50節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 52:1 奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 52:2 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
 52:3 主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」と。
 52:4 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 52:5 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。
 52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

詩編 65:10 あなたは地に臨んで水を与え 豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え
 65:11 畝を潤し、土をならし 豊かな雨を注いで柔らかにし 芽生えたものを祝福してくださるからです。
 65:12 あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
 65:13 荒れ野の原にも滴り どの丘も喜びを帯とし
 65:14 牧場は羊の群れに装われ 谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。

ヨハネ 12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
 12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
 12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
 12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
 12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
 12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
 12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

イエス様は、世を裁くためではなく、救うために来られたと語られている。

これは、とても大切なことであり、イエス様を信じない人は、即、全員が滅ぼされるということを示しているわけではない。

イエス様のことを聞き、そのうえで、積極的に敵対するならば、その敵意に対しての裁きを自ら招くことになるのであり、積極的に反対しないのであれば、自ら裁きを招くようなことにはならないだろう。

しかし、いずれにせよ、人はいつか全能の神の御前に立たされ、すべてのことについて申し開きをしなければならない時がくるであろうから、その時、自信をもって自分の潔白を証明できるのなら、何も問題はない。

ただ、すべての人は、少なからず罪を犯しつづけており、果たして神の御前ですべての申し開きができるほどの善を備えているかというと疑問であり、そうした不安をすべて取り除くためには、主イエス様が私の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを受け入れていれば、何も問題はなく、平安でいられるだろう。

イエス様を信じるならば、すべての罪に対する裁きは完全なかたちで精算されているのだから、何も心配はいらない。

イエス様を信じるということは、そういう平安を携えて生きていくことのできる幸いを与えるものである。