エレミヤ25章8~14節、詩篇89篇2~5,16~19節、ガラテヤ5章7~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 25:8 それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、
 25:9 見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。
 25:10 わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。
 25:11 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。
 25:12 七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。
 25:13 わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。
 25:14 彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」

詩篇 89:2 主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に あなたのまことを告げ知らせます。
 89:3 わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ あなたのまことがそこに立てられますように。」
 89:4 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び わたしの僕ダビデに誓った
 89:5 あなたの子孫をとこしえに立て あなたの王座を代々に備える、と。」

 89:16 いかに幸いなことでしょう 勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。
 89:17 絶えず、御名によって喜び躍り 恵みの御業にあずかって奮い立ちます。
 89:18 あなたは彼らの力の輝きです。御旨によって、我らの角を高く上げてください。
 89:19 主は我らの盾 イスラエルの聖なる方は我らの王。

ガラテヤ 5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
 5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
 5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
 5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
 5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
 5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

 

 

 

イエス様が私の身代わりとなって十字架で死んで下さったことを信じることで、私たちは全ての罪を赦されて、永遠の命にあずかる救いの約束を受けている。

イエス様の十字架の贖いの御業のおかげで、もはや私たちは、自らの力で救いを全うするような良き業も捧げものも不要となっている。

それなのに、いつのまにか、クリスチャンなのだから「こうあるべき」とか「こうしなければならない」といった根拠不明の教えが蔓延し、なんとなく皆がそれに従わされているように感じられることがある。

真理はあなたがたを自由にします、とイエス様は仰せられたが、自由とはどいうことだろう。

そして、そのまことの自由をもたらす真理とは、どういうことなのか。

イエス様は、罪に囚われて不自由になっている状態から解放し、真の自由を与えるために、自らの命をも犠牲にして、救いの御業を完成して下さった。

もちろん、赦されるのだから何をやっても良いだろうというのでは、再び別の罪の奴隷の状態に逆戻りするだけなので、どう歩むべきかということは、さらに神のみ言葉に耳を傾けて、本来あるべき人間の生き方へ立ち返っていくことが大切であるが、それでも、それもまた真の自由によるものであり、神の恵みのうちに生き続けていれば、自ずと、振舞いも変えられていくだろう。

「こうあるべき」とか「こうしなければならない」といった思いは一旦捨てて、素直に「こうしたい」と思えるような気持ちの中で、神と隣人との間で、まことの愛と平和を保っていけるような人生を歩んでいきたいと思う。