エレミヤ20章1~6節、詩篇69篇8~11,17~19節、ルカ11章53節~12章3節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 20:1 主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
 20:2 パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
 20:3 翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
 20:4 主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
 20:5 わたしはこの都に蓄えられている物、労して得た物、高価な物、ユダの王たちの宝物をすべて敵の手に渡す。彼らはそれを奪い取り、バビロンへ運び去る。
 20:6 パシュフルよ、お前は一族の者と共に、捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に。」

詩篇 69:8 わたしはあなたゆえに嘲られ 顔は屈辱に覆われています。
 69:9 兄弟はわたしを失われた者とし 同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
 69:10 あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。
 69:11 わたしが断食して泣けば そうするからといって嘲られ

 69:17 恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください 憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
 69:18 あなたの僕に御顔を隠すことなく 苦しむわたしに急いで答えてください。
 69:19 わたしの魂に近づき、贖い 敵から解放してください。

ルカ 11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、
 11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
 12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。
 12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
 12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 

 

イエス様は、ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさいと語られており、それは偽善に注意せよとのことであると記されている。

偽善というのは、一見、正しいことを主張しているようで、その実は、自分の義を主張するだけで、褒められることを期待しているのであろうけれども、結果的には周囲に害をもたらし、嫌悪の対象となるだけの言動と言えるだろう。

人間の行動には、こういった偽善と呼ばれるものが多い。

教会の中でも根拠不明の正義が振りかざされ、平気で他人を裁いているのが実態であろう。

正しいことを主張するのは悪いことではないが、それは聖書のどこに書かれていることなのか、あるいは、その言動によって嫌な思いをする人がいることにどれだけ気がついているだろうか、もっと言えば、はたしてそれで人が救われるのだろうか、一人一人が自分の言動に責任を持ち、口にし、行動に表していく前に、神の御前で考えをまとめることが大切であろう。

もちろん、人間には完全なことはできないし、罪を犯してしまうことは避けられない。

それでも、果たしてこの言葉を口にするのが良いことなのか、この行動が神様の御心に適う事なのかと、神様に問いながら、ほんの少しでも良いから、御心に沿う生き方を模索していけたらと思う。

イエス様は一人でも多くの魂が救われるために、自らの命を捨てられた。

イエス様のようにとまではいかなくても、ほんの少しずつでもいいから、周囲の方々の救いのためにはどう心配りをすればいいかと考えながら、歩んで行きたい。

主のしもべとは、そういうものであろう。