サムエル記上15章34節~16章13節、詩篇27編1~6節、ルカ5章27~32節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル記上 15:34 サムエルはラマに行き、サウルはギブアの自分の家に向かった。
 15:35 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。
 16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
 16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
 16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
 16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
 16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
 16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
 16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
 16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
 16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
 16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
 16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

詩篇 27:1  ダビデの詩。 主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。
 27:2 さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとするが わたしを苦しめるその敵こそ、かえって よろめき倒れるであろう。
 27:3 彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。
 27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。
 27:5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ
 27:6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう。

ルカ  5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
 5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
 5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
 5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

 

 

神様が人をお選びになる時、そこには必ずなんらかの理由がある。

徴税人であったマタイを弟子として召された時も、イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と仰せられ、マタイがなんらかの悩みを抱えていたり、あるいは、文字通り、病を抱えていたのかもしれない。

しかし、32節で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と語られていることから、マタイ自身、自分の犯してきた過ちであるとか、神に背を向けて歩んできた自分の生涯を悔い改め、神のもとに立ち返り、御心に適う生き方へと変わりたいと願っていたのであろうゆえ、イエス様と出会い、そして召されていったのである。

つまり、イエス様さまの側にも目的があり、召される側の人間にも理由があるということである。

もちろん、神に召されたからと言って、すぐにその意味が理解できたり、必ずしも目覚ましい変化が起きるというわけではないかもしれないが、少なくとも、主なる神を信じ、神に頼り、神と共に生きて行こうとするだろう。

見た目には何も変わっていないように見えても、大きく人生は変えられている。

イエス様の十字架のお姿に目を向け、罪赦され、永遠の命にあずかるものとされていることを喜び、生きて行こう。