サムエル記上1章1~20節、詩篇27編1~6節、ガラテヤ1章11~24節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル記上 1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
 1:2 エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。
 1:3 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。
 1:4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、
 1:5 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。
 1:6 彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。
 1:7 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。
 1:8 夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」
 1:9 さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。
 1:10 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。
 1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
 1:12 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。
 1:13 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、
 1:14 彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」
 1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
 1:16 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、
 1:17 「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
 1:18 ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
 1:19 一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、
 1:20 ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

詩篇 27:1  ダビデの詩。 主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。
 27:2 さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとするが わたしを苦しめるその敵こそ、かえって よろめき倒れるであろう。
 27:3 彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。
 27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。
 27:5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ
 27:6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう。

ガラテヤ 1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
 1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
 1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。
 1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
 1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
 1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、
 1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
 1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
 1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
 1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
 1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。
 1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。
 1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、
 1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

 

 

パウロは自分が伝えている福音は、人からのものではなく、直接、神から与えられたものであると述べている。

そもそも神様の救いの御業は、人が考え出したようなものでもなく、なおかつ、だれか普通の人間の手によって完成されたようなものでもなく、神ご自身が計画され、そして、ご自身がご自分の命をかけて実行された贖いの御業であり、その救いの御業を行われたイエス様がご自身がパウロに現れたからこそ、「人からのものではない」と述べているのであろう。

もちろん、新約聖書における聖霊降臨以降は、主のなさった救いの御業を信じる人たちが、み言葉を用いて宣べ伝えていくのであり、「人」が絡んでいることは確かであるが、あくまでそれを導かれるのは主なる神である。

聖霊様が働かれることで、み言葉の宣教の働きは広められ、福音が宣べ伝えられていくのである。

だから、福音を宣べ伝えていくことというのは、イコール、神が働いておられる、ということなのである。

神が働いておられるのなら、きっと、そこに救いの御業が訪れていくだろう。

神の御業が現れることを期待しつつ、臆せず、ひるまず、神のみ言葉を、福音の言葉を宣べ伝えて行きたいものである。