イザヤ33章17~22節、詩篇24篇、黙示録22章8~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 33:17 あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ 遠く隔たった地を見る。
 33:18 あなたの心はかつての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか 量った者はどこにいるのか やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。
 33:19 あの傲慢な民をあなたはもはや見ない。その民の唇は重くて聞き分けることができず 舌はどもるので理解しえなかった。
 33:20 シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい 移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく 一本の綱も断たれることはない。
 33:21 まことに、そこにこそ 主の威光は我らのために現れる。そこには多くの川、幅広い流れがある。櫓をこぐ舟はそこを通らず 威容を誇る船もそこを過ぎることはない。
 33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。

詩篇 24:1  ダビデの詩。賛歌。 地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。
 24:2 主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた。
 24:3 どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。
 24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。
 24:5 主はそのような人を祝福し 救いの神は恵みをお与えになる。
 24:6 それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。
 24:7 城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
 24:8 栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
 24:9 城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
 24:10 栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。

黙示録 22:8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
 22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」
 22:10 また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
 22:11 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
 22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
 22:14 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
 22:15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
 22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
 22:17 "霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
 22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
 22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
 22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
 22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 

 

 

イエス様は今から二千年ほど前のイスラエルに人として一度来られた。

そして、死んでよみがえられて後、天に昇り、世の終わりの時に再びやって来られると約束された。

一度目に来られた時は、贖いの御業を完遂するためであり、二度目は、すべての裁きが完成される時である。

一度目と二度目の大きな違いは、一度目にイエス様が来られた時は、主のなさる裁きの業をイエス様お一人が受けられただけである、それは、イエス様のこの贖いの御業が、全ての人の救いのために、一身に引き受けられたことを証しており、二度目に来られた時は、そのなされた裁きの全てが明らかにされるために、正しい人は救われ、正しくない者は裁かれ、それらの裁きを逃れうるものは一人もいないのである。

だとしたら、私たちにできることは、まずイエス様を忘れない事。

イエス様の十字架の贖いによってのみ、裁きをのがれて救いの恵みにあずかることができることをしっかりと信仰を持って受け止めておくことである。

そして、もう一つできるとするなら、その救いの証しを一人でも多くの人に伝えていくこと、であろう。

その人が信じて受け取るかどうかは、我々にはどうすることもできないが、伝えることならできないことではない。

いろいろとむずかしい要素もあるが、神様が約束されたことであり、それが記されている聖書の言葉を、そのまま伝えていくことを大事にしていけたらと思う。