イザヤ6章1~8節、詩篇121篇、ルカ5章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
 6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
 6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
 6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
 6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
 6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
 6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 

詩篇 121:1  都に上る歌。 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
 121:2 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
 121:3 どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。
 121:4 見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
 121:5 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
 121:6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
 121:7 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
 121:8 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

 

ルカ 5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

 

 

 

ルカ5章の箇所には、ガリラヤ湖で漁師をしていたペテロたちがイエス様の弟子として召されたときのことが記されている。

ペテロたちは、ガリラヤ湖で一晩中、漁をしていたが、魚一匹獲れなかった。

にも関わらず、イエス様が命じられると、おびただしい数の魚がとれたのである。

おそらく、イエス様のことを見下し、不平の気持ちを抱いていたであろうペテロは、自分の傲慢さや罪深さを思い知らされ、悔い改めへと導かれるのであるが、そんな弟子たちに、イエス様は弟子として従ってくるように命じられるのである。

イエス様は、ただ彼らを弟子として召されただけではなく、彼らの罪深さを思い知らさせ、その上で、赦し、導かれているのである。

本日の旧約聖書の日課のイザヤ書でも、神の神々しさを目の当たりにし、己の罪深さを思い知らされたイザヤに対し、「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と、罪の赦しの言葉が告げられ、その上で「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」といってイザヤは預言者として召されたのである。

つまり、召しとは赦しを伴った選びであり、選ばれるために赦され、赦されるために選ばれた、ということなのである。

私たちも、神に選ばれるために赦され、赦されるために選ばれた者であると言えよう。

赦されるために選ばれ、召されるために赦された者として、主のために喜んで従って生きていくものとならせていただきたいものである。