ルカ3章7~14節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ルカ 3:7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

テレビのニュースで、ある地域の修行の様子が紹介されていた。
狭い洞窟を通り抜けることで、ざんげや生まれ変わりを経験することができるという。
洞窟の途中の広場では、祈りの場があり、熱心に願い事を祈っている修行僧の姿に、異様な雰囲気を感じた。
修行や祈り、あるいは、ざんげに生まれ変わりなど、キリスト教にも似たようなことがないわけではないかもしれない。
けれど、何か違和感を覚えたのは、それを何のために行っているかというところにあるのかもしれない。
みな必死に修行をする。何のためか、己の幸いのためであろう。
願い事も家内安全であったり、商売繁盛であったり。

ヨハネのもとに洗礼を受けようと集まってきていた人たちの何が問題だったのかと、ふと考えてみた。
彼らは、良い実を結ばない木と言われている。
そして、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」との問いに対し、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」とか「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」などと答えている。ヨハネの指摘していることの特徴は何か考えてみた。きっと、他者への関心であったり、他者への利益といったことも含めた、周囲の人との交流を大切にせよ、ということなのではないかと思う。
自分さえ良ければ良い、とか、独りよがりな幸い、そういった自己中心的な生き方を悔い改め、他者へ仕えるような生き方へ、それがヨハネの意図するところであったのではないだろうか。
神は自らの命を捨てて、人を愛して下さった。
そのような愛の形を見習いながら、私たちもまた、隣人の益になることを考慮しつつ、自分中心の生き方を顧みていかなければと思う。