申命記26章1~19節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 25:1 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。
25:2 もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。
25:3 四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。
25:4 脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。
25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
25:7 もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」
25:8 町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、
25:9 義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。
25:10 彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。
25:11 二人の男が互いに相争っているとき、一方の妻が近づき、夫が打たれるのを救おうとして、手を伸ばし、相手の急所をつかんだならば、
25:12 その手は切り落とされねばならない。憐れみをかけてはならない。
25:13 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。
25:14 あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。
25:15 あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、
25:16 このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
25:17 あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。
25:18 彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。
25:19 あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。

これらのルールは、聖書の他の個所でも見受けられるものである。
四十回の鞭打ちについては、これ以上打ってはいけないという制限を示すものであり、2コリント11:24等によれば、後に一回少ない三十九回に改められているものの、新約聖書に時代になっても、以前としてこの規定が守られていたことが伺える。
脱穀している牛に口籠をかけてはならないという戒めも、1コリント9:9~10などで引用されている。
長男が無くなった場合、次男が再婚し、子孫を設けることについても、マタイ22:23以下等で、復活を否定するサドカイ派らの問いかけに用いられているし、義理の姉妹をめとることを拒む際、靴を脱いで示す行為についても、ルツ記4:7~8等に同様な記事が見受けられる。
このように、旧約の時代に定められた戒めの数々は、イスラエルの子孫において代々にわたって忠実に受け継がれ、守られてきたのであろう。
もっとも、その本来の趣旨を見失い、しゃくし定規に細かい規定だけが厳守されてきた面も否定できないものの、何世代にもわたってきちんと受け継がれてきたことは驚愕に値するものと言える。
それほどに、かれらにとってイスラエルをエジプトから救い出したモーセへの信頼が厚かったということであろう。
ただし、本来イスラエルを救いだしたのは、主なる神であって、モーセではない。
そのあたりの若干の認識のズレが、後の律法主義者らを生み出していった背景にあるのであろう。

ヨハネ9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」

律法の言葉を与えられたのは、モーセではなく、主なる神である。
同じように、律法の言葉も、守るための戒めではなく、その背後にある神に意図、御心を求めていくことを見失ってはならないのである。
神は弱い者や貧しい者にも公平に恵みを賜るお方、愛と慰めに満ちたお方であることを覚えたいものである。