1ペテロ3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
書かれていることはそう難しいことではないが、内容的にはやや難解な箇所であると言えるだろう。
キリストが苦しまれたことのは、我々を神のもとへ導くためであったし、肉では死んだが、霊では生きていると言う。
そして、霊においてキリストは捕らわれている者たっちのところへ宣教に行き、全ての創られた者に対しても権威を持っておられることを示しているという。
霊において、ノアの時代に神に聞き従わなかった者たちのところへ宣教に行き、ノアの時代に行われた裁きは、すなわち、洗礼によって救われることと関連があるとも語られている。そして、我々は洗礼を通して救われるが、それは、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願いも求めることであるという。
どう解釈すれば良いのか不明だが、救われた人もそうでない者も、全ての人がキリストの権威のもとに服しているということは明らかなようだ。
その中で、キリストが我々を神のもとに導くために、罪のない方が罪ある者のために苦しまれた故に救われたということを思う時、イエス様の本心としては、分け隔てなく、全ての人に救われて欲しいという思いは確かなことであろうと思う。
救いのチャンスは、全ての人に平等に開かれている。あとは、救われるか滅びるか、選ぶのは私たちの側に責任がある。
どちらを選ぶか、救いを選ぶならば、聖書のことがよく分からなくても、神への正しい良心を願い求めることができるだろう。
そういう意味で、神に聞き従う道を選び取っていきたいものである。