マタイ20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
エリコの町で出会った盲人らは、イエス様に「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
これに対してイエス様は「何をしてほしいのか」と尋ね返している。
おおよそ、盲人の人たちが「憐れんで下さい」と言っているのだから、目が見えるようにしてほしいと願っていることはすぐにわかると思う。
しかし、あえてイエス様は「何をしてほしいのか」と尋ねられている。
盲人たちにとっても、あえて口にすることを避けていたことなのかもしれない。
どうせ、言ってもダメかもしれないとの思いがあったのかもしれない。
けれど、イエス様はあえて「何をしてほしいのか」と尋ね、必ず応えるから、正直にあなたの本心を述べなさいと促されたということなのだろう。
我々も、勝手に「これは祈っても無理なこと」と決め付けたり「もう少し言葉を濁して祈ったほうがいい」と考えてしまいがちであるが、イエス様はあえて「何をしてほしいのか」と尋ねられているのだから、「憐れんでください」ばかりではなく「目を開けてほしいのです」と祈ってもいいのかもしれない。
私たち自身で結果を決め付けてしまう前に、主に祈っていく、私もそういう者でありたい。