2コリント11章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント11:1 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。
11:2 あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。
11:3 ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。
11:4 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。
11:5 あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。
11:6 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。

愚直なまでにパウロの姿勢というのは、キリストの恵みにあって生かされ、救われ、用いられているものであるということを確認しようとしているように見える。
そして、その愚直さの故に、彼の言動はぶれることなく、常に同じ、いつも変わらないものであったことだろう。
私たちの時代でも、時々「あの人はいつも同じ事を言っている」と思うような人に出会う。
そして、「今はもうそんな時代でもないのに・・・」と思う人もいるかもしれない。
けれど、本当に大切なことは変わることはない。
真実が変わるようなら、それはもはや真実ではない。
だとしたら、「いつも同じ事を言っている」とか、「いつも同じ事をしている」ということは、それだけ、それが重要であるということなのかもしれない。
パウロはいつも同じメッセージを語っていたのかもしれない。
しかし、コリントの教会のクリスチャンたちは、それを聞いて、「またあの話をしている。もう聞き飽きた」とは考えなかったのではないだろうか。
パウロによって育てられた者たちもまた、パウロ動揺、愚直な歩みを続けていたのであろう。
そうやって良い伝統は受け継がれていくのだ。
昔のやり方では、今の若い人たちには受け入れられないと考える人がいる。
しかし、真実だという確信があるのなら、愚直なまでに今までのやり方を続けていっても良いのではないだろうか。
もちろん、反省すべきところはきちんと反省し、改めるべきところはきちんと改めた上で、真実を変えることなく宣べ伝えていけるようにと願うものである。