2コリント2章5~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント2:5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
2:6 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
2:7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
2:8 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
2:9 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
2:10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
2:11 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

現代の教会の中にも様々な問題は起こる。
そして、互いに傷つけあったり、悲しませたりするといったことも完全には避けられない。
ならば、そうなった時にどう対処するかのほうが大事。
失敗した人や、過ちを犯した人を「罪人だ」と言って凶弾することはいとも簡単なことである。
しかし、イエス様はそうはなさらなかった。
罪であると認めつつも、その責めを負わせるようなことはせず、ご自分の身に罪を背負われて裁きを引き受けられたのだ。
つまり、それは、我々にとっては赦されたということ。
人はいくら主イエス様を信じてクリスチャンになったとしても、本質的には変わらない。
相変わらず罪も犯す。
罪を犯すことを助長しているわけではないが、避けられないということ。
そんな人間の現実と向き合いながら、それでも赦そうとするイエス様の心を覚えていたいのである。
それは罪だとか、それは御心に適うことだとか、綺麗事では片付けられないこともある。
だからこそ、そういうぐちゃぐちゃな現実をひっくるめて、十字架の上で統合されているイエス様の存在が本当に必要なのだと思う。
絶対に赦されないことが赦される幸い。
滅びるより仕方のない私が救われているという驚き。
それが十字架によってもたらされた神の奇跡の業による恵みなのである。