マタイ9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
個人的な考え方であるということを前置きに、私は病気というものは、ここから先が病気で、ここまでは病気ではない、というようなものではなく、体の機能が衰えたり、弱っていたりというような感じで捉えたほうが良いのではないかと思っている。
つまり、デジタル的な1か0かという世界ではなく、アナログ的に大きいか小さいか、強いか弱いか、そういうものの蓄積した状態とみたほうが良いと考えている。
たとえば、~症候群という言い方は、ある症状が現れている人という意味で見るなら、程度の大小に差はあっても、健康的な人もいるかもしれないし、それをどう捉えるかも重要なことではないかと思う。
あくまで個人的な考え方なので、必ずしもそうではないと思うが・・・。
マタイ9章のこの箇所を見ていると、イエス様のなさった癒しの業というか、励まし?とも思えるような接し方に心惹かれる。
イエス様は、長年出血が続いている女性に「癒されるように」とは仰せられず「娘よ。元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と仰せられている。「元気になりなさい」とは面白い言葉ではないだろうか。
仮に病気の症状が治らなくても、心を元気に生きることもできる場合もある。
もちろん、この女性の場合、イエス様のこのお言葉によって病気の症状も治ったのであるが、イエス様の思いには、病気にも負けない元気さを取り戻すことが大切であと仰せられているようにも思う。
もう一人、息を引き取ったばかりの女の子をイエス様は生き返らせている。
その時も、イエス様は、少女の手を取ったと記されているだけである。
何か、特別なことを言ったのでも、行ったのでもない。
起き上がるための手助けとして、手を取ったのである。
もちろん、そこには、イエス様でしかできない大いなる奇跡の業も行われていることは事実であるが、こういう手助けを人は必要としているのではないだろうか。
単に医者にかかり、薬をもらい、手術をし、病を治療することも重要であるが、人はもっと全体的な癒しを必要としているのではないだろうか。
優しく声かけをしたり、そっと手を差し伸べたり、案外、誰にでもできる手助けが人の心を癒していくのではないだろうか。
そういう優しい手助けに触れた時、人はたとえ病気の症状をかかえていても、元気になれるような気がするからである。