ヘブル11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することであると述べられている。
つまりそれは、この世の世界にある見えるものによっては確認できないということでもある。
だから、多くの人には信じるという行為自体がなじめないのかもしれない。
けれど、望んでいることを確信するということから、望みがあるということに注目したい。
望みがあるか、それとも、何の望みもなく、絶望して生きるのか、どちらを選ぶかによって、生き方がおのずと違ってくる。
望みがないなら仕方がない。
けれど、少しでも望みがあるなら、それを確認する方法が信仰によるということであるということを思う時、みすみす信仰を捨てることはもったいないように思うのだ。
確かに、それが事実であるかどうか、確かめる手段はないのかもしれない。
けれど、もし、望みがなく、絶望しかない人生だとしたら、もはや、そんな人生に何の意味があるのだろうか。
人は、生きて行くために、望みが必要なのだ。
そして、それに従って、信仰も必要になってくる。
ただそれだけのことなのだ。
ちなみに、望みという言葉を考えるとき、そこに自分の願いや欲求だけを押し付けていくものを願望と呼ぶ。
欲望だったり、わがままだったり。
しかし、聖書が教える望みは希望である。
希望とは、稀な望みであり、この世には見られないもの、だから、本当ならありえないような、びっくりぎょうてんするような、おどろくばかりの恵み、アメージンググレース、それこそが真の希望であり、望みである。
神が、ご自分の一人子なるキリストの命を捨ててまでも、私たちを愛し、救ってくださるなどという、ありえないような、おどろくばかりの恵み、たとえ死んでも永遠の命に生き返らせてくださるという、アメージングな恵み、それが真の希望なのである。
私たちは、そのような希望を信仰によって見上げつつ生きることができるのである。