詩篇16:1 ミクタム。ダビデの詩。神よ、守ってくださいあなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励ましわたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません。
16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなくあなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます。
今週の礼拝メッセージでは、イエス様がガリラヤ地方に退かれたという箇所から「退く」という言葉に注目してみた。
「退く」というと、何か、逃げ出すような意味合いを持つ言葉のように見える。
しかし、イエス様が神の国の宣教の働きを始められた最初の地がガリラヤであって、そこに「退く」と用いるのは、妙な感じがしないでもない。
しかし、イエス様は、神の身分であることに固執しようとは思わず、人となって世にくだり、へりくだって十字架の死に至るまで従順であられたお方、だから、神の国からこの世界に「退く」という表現がふさわしいのかもしれない。
ある賛美歌の中に「きつねには穴があり、鳥に巣はあれど・・・」という歌がある。
イエス様は、ダビデ以上に、この世界には、ひと時も心休まる所など無かったことだろう。
しかしそれは、イエス様が私たちの身代わりとなって、十字架の裁きを受けられたからであり、それ故に、我々には神の御許に安らぐ場所が確保されるのである。
神は、イエス様の生涯を通して、私たちに天に居場所を設けて下さった。
居場所があるということは、何物にもまして幸いなことである。
あなたの居場所がここにある。