エゼキエル30章1~25節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル30:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
30:2 「人の子よ、預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。泣き叫べ、ああ、その日は災いだ。
30:3 その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。
30:4 剣がエジプトに臨み、戦慄がクシュを襲う。エジプトで、人々は刺されて倒れ富は奪い去られ、国の基は覆される。
30:5 クシュ、プト、リディア、諸種族の群れ、クブおよびその他の同盟国の住民も、彼らと共に剣で倒れる。
30:6 主はこう言われる。エジプトを支える者は倒れその驕れる力は覆る。ミグドルからセベネに至るまで人々は剣に倒れる、と主なる神は言われる。
30:7 荒れ果てた国々の中でも、エジプトの荒廃は甚だしく、荒れ廃れた町々の中でも、その町々は甚だしい廃虚となる。
30:8 わたしがエジプトに火を放って、これを助ける者がすべて滅ぼされるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
30:9 その日、わたしのもとから使者が船で出発し、安心しているクシュをおののかせる。エジプトの日に、戦慄が彼らを襲う。その日が来るからである。
30:10 主なる神がこう言われる。わたしはバビロンの王ネブカドレツァルの手によってエジプトの富を絶つ。
30:11 彼とその軍隊、諸国の中で最も凶暴な軍隊が、この国を滅ぼすために動員される。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、この国を殺された者で満たす。
30:12 わたしはナイル川を干上がらせ、この国を悪しき者たちの手に売り渡し、他国の人々によって、その地とその地を満たしているものを滅ぼし尽くす、と主なるわたしが告げる。
30:13 主なる神はこう言われる。わたしは偶像を打ち壊し、メンフィスから偽りの神々を絶つ。エジプトの国には、もはや支配者がいなくなる。わたしはエジプトの地に恐れを与える。
30:14 わたしは上エジプトを滅ぼし、ツォアンに火を放ち、テーベに裁きを下す。
30:15 また、わが憤りをエジプトの砦であるシンに注ぎ、テーベの富を絶つ。
30:16 わたしはエジプトに火を放つ。シンは苦しみにもだえ、テーベは引き裂かれ、メンフィスは白昼、敵に襲われる。
30:17 オンとピ・ベセトの若者たちは剣に倒れ、他の人々は捕囚として連れ去られる。
30:18 わたしがテハフネヘスで、エジプトの軛を砕くとき、そこでは昼も暗くなり、その驕れる力は絶たれる。密雲が町を覆い、その娘たちも捕囚として連れ去られる。
30:19 わたしがエジプトに裁きを行うとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」
30:20 第十一年の一月七日に、主の言葉がわたしに臨んだ。
30:21 「人の子よ、わたしはエジプトの王ファラオの腕を折った。見よ、彼の腕は手当てを受けて巻かれることなく、力を補う添え木を当てて巻かれることもないので、剣を取ることができない。
30:22 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはエジプトの王ファラオに立ち向かい、その強い腕と折られた腕を共に打ち砕き、その手から剣を落とさせる。
30:23 わたしはエジプトの人々を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやる。
30:24 わたしはバビロンの王の腕を強め、その手に剣を与える。わたしはファラオの腕を折る。彼はバビロンの王の前で、刺された者のように呻き声を発する。
30:25 わたしはバビロンの王の腕を強くする。ファラオの腕は弱くなる。わたしがバビロンの王の手に剣を与え、彼がそれをエジプトの地に伸ばすとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
30:26 わたしがエジプトの人々を諸国民の中に散らし、国々の間に追いやるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

主なる神様は、エジプトに裁きを下された。
イスラエルの隣国エジプトに、である。
当時、イスラエルは、北にバビロン、南にエジプトと、二つの強国にはさまれて、どちらにつくか心が二分されていたことであろうと思う。
そのような中、神はバビロンを用い、エジプトに裁きを下そうとなさったのはなぜか。
考えられる一つの理由として、エジプトの国が豊かで、ともすると、イスラエルの民がエジプトへ下りたがっていたということが挙げられるのではないだろうか。
同じ大国であっても、バビロンは砂漠地帯、一方のエジプトは、ナイル川周辺の肥沃な土地に支えられた豊かな生活が約束されていたからではないだろうか。
いつの時代でも、豊かで快適な暮らしは人々の心を魅了するもの。
豊かで快適すぎる暮らしにどっぷりとつかっていると、見えなくなってしまう神様の御心があるのかもしれない。
主なる神様が、バビロンではなくエジプトを裁かれた理由を思いつつ、日々の生活の豊かさの意味を思い巡らすのもいいかもしれない。