マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
特別事業の働きをするようになって、会計の責任を負うことの大変さを思い知らされた。
毎月の支払いや、支出の管理、さらには、支援のアピールなどもしなければならない。
そんなことをしていると、自分への報酬など、一番後回しになっていく。
潤っている時にはそれほど問題ないのだが、財政的に厳しい時には、果たして自分の給与が出るだろうかと心配になることもある。
そんな時、働いているのだから報酬を頂くことは当然の権利なのだが、なんだか悪いことをしているような気持ちにすらなる。
さらに、普段から、そういうやり繰りのことばかりを考えていると、プライベートな金使いについてもだんだんシビアな方向へと偏っていく。
簡単に言えば、ケチになっていくということ。
金使いが荒いよりは良いのかもしれないが、用いるべき所にまで惜しむようになると、いろいろと問題も出てくる。
心はいつも重たい雰囲気に飲み込まれたまま。
マタイだって、好き好んで会計の仕事をしていたわけではないのだろう。
本当なら、やりたくはない仕事かもしれない。
けれど、誰かがやらなければならない仕事であるし、嫌われつつであっても、やらざるを得なかったのだろう。
マタイもきっと、心が重たいまま過ごしていたのではないだろうか。
人にはそれぞれ悩みがある。
周囲の人にそれを理解してもらうのはなかなか難しいもの。
だから、イエス様の憐れみが心にしみる。
分かってもらえない寂しさも、イエス様の憐れみの心が癒してくれる。
だから、イエス様のもとへ行こう。
イエス様と共に生きよう。