ヨハネ10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」
ユダヤ人たちは、イエス様が行った奇跡の数々を見てもなお、イエス様を信じようとはしなかった。
信じようとしなかったというより、受け入れたくなかったというほうが適当かもしれない。
彼らも確かにイエス様のなさった業を目撃し、それを疑うことはできないほどであったはずである。
それなのに、彼らが受け入れようとしなかったのは、それによって自分たちの態度や地位など、変えていかなければならなかったからであろう。
彼らにとって、そのような変革は、既得権益を失するものとして、受け入れがたかっただけなのかもしれない。
時は移り、現代の私たちの個人的な立場はどうだろうか。
やはり、イエス様を受け入れることには、ある程度の変革は必要である。
それが己の罪の問題と関わりあるものなら、やはり、難しいことなのかもしれない。
けれど、決して不可能なことではない。
よりよい世界へ、真の平安と救いを求めるならば、変革も必要である。
変わらなければならないところは、御心にかなうところへ向けて変えていこう。
そして、イエス様を受け入れよう。