ヨハネ9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
昨日、脳内に腫瘍ができ、視神経を圧迫していたために、視力が衰え、腫瘍の除去手術を行った友人をお見舞いしてきた。
神経への圧迫が収まれば、視力も回復するかと期待したけど、さほど変わらないそうで、ほぼ右目は見えず、左目が半分くらい見えるとのこと。
とても誠実な方で、信仰の友として尊敬している兄弟なのだが、この病気を機に、自分の今までの信仰がいかに自分勝手な「自分の信仰」であったかと思い知らされたと言って、悔い改めさせられたよと言っておられた。
辛いと思う。
目が不自由になったこともそうだと思うけれども、今までの自分の信仰のあり方を悔い改めさせられるのも辛かっただろう。
けれど、それによって「見えてくる」こともある。
全ては神様の恵み、周囲の人の配慮や温かい心。
病状は何も変わらないけど、確かに彼の笑顔は前より素敵になっていた。
嬉しいことを素直に嬉しいと言える心や、人に助けてもらえることのありがたさを知ることのできる心。
またお見舞いに行くから、いろんなことを教えてほしいな。