使徒26章1~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

使徒26:1 アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。
26:2 「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。
26:3 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。
26:4 さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。
26:5 彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。
26:6 今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。
26:9 実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。
26:11 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
26:12 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、
26:13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。
26:14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。
26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

パウロの主張によると、パウロが信じている事柄は、決して訴える側のパリサイ派の人たちの考え方と異なるものではなく、むしろ、同じ聖書の約束の実現に希望を置いているもので、根本的には同じ信仰であるはずであるというものである。
ただ、その信仰の対象である神ご自身であるイエス様の御声を直接聞いたということがパウロの人生を大きく変えたというだけなのである。
つまり、聖書に語られている神がイエスであるかどうか、ただその一点で訴えられていたのである。
聖書に語られている神を信じるのなら、なぜイエス様を信じられないのか。
それがパウロに対するイエス様の御言葉でもあった。
聖書を本当に信じるのなら、死者の復活は信じられること。
そして、死者が復活することを信じることができるのなら、イエス様がそのお方であり、神ご自身であられることも信じられるはずである。

私はパウロのように、イエス様の御声を聞いたことはない。
けれどもイエス様を信じている。
なぜなら、ここに書いてあることが真実なら、救いを受けることができるし、平安を受けることができるからである。

信仰とは、それが事実であるかどうか確認することよりも、そこに約束されている事柄に希望を持ち、それを信じて平安のうちに生きていくこと。
そうなら良いなあ、そうあるべきだ、そうでなければ救いがない。それで良いと思う。
そういう考えをもてた時、私も闇から解放され、神の恵みに信仰者と共にあずかる身となっていることと確信する。