マタイ17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
17:11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
弟子たちがイエス様に「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた時、イエス様は、一見「なぜ」という質問に対して答えておられないように見える。
かろうじて「すべてを元どおりにする」ということが語られているくらいである。
しかし、エリヤは既に来たこと、そして、人々は彼を認めず、好きなようにあしらい、その後に来るメシアなるキリストも同じように苦しめられることになるということを語られ、エリヤが来たということは、すなわち、エリヤが来たならば、すでに真のメシアなるキリストも来ているということを知ることができるということが語られており、エリヤ同様にメシアも迫害されるということだけが述べられているのである。
つまり、メシアの前にエリヤが来る理由は「救い主の到来の知らせ」という意味合いがあるということであろう。
「救い主の到来の知らせ」は、私たちにとって福音である。
ならば、エリヤは、その福音の訪れを確かなものとするために語られる律法の言葉なのかもしれない。
確かにエリヤは人々に悔い改めを説いた。
そして、それは「すべてを元どおりにする」作業に他ならない。
律法の言葉を聞き、山は削られ、谷は埋められ、平らな土地に救い主をお迎えする。
それが、聖書における律法と福音の言葉なのだろう。
だから、メシアをお迎えするためにも、エリヤは必要なのである。