詩篇108:1 歌。賛歌。ダビデの詩。
108:2 神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます。「わたしの誉れよ
108:3 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」
108:4 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し国々の中でほめ歌をうたいます。
108:5 あなたの慈しみは大きく、天に満ちあなたのまことは大きく、雲を覆います。
108:6 神よ、天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせてください。
108:7 あなたの愛する人々が助け出されるように右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください。
108:8 神は聖所から宣言された。「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
108:9 ギレアドはわたしのものマナセもわたしのものエフライムはわたしの頭の兜ユダはわたしの采配
108:10 モアブはわたしのたらい。エドムにわたしの履物を投げペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」
108:11 包囲された町に誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
108:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか。
108:13 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。
108:14 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
この詩篇は、1~6節までは詩篇57篇8~12節、7~14節までは詩篇60篇7~14節の箇所とほど同じになっており、これら二つの詩篇を組み合わせて歌われたものであることは間違いないものと思われます。
どうしてこのようなことが行われているのか、今となっては、確かな理由は誰にもわかりません。
しかし、こうして、神への賛美と祈りの歌が一つに結ばれて、あたかも一つの歌であるかのように歌われていることは、神への賛美と祈りの豊かさ、味わい深さ、そして、時に適った命のある言葉であるということを示しているのかもしれません。
聖書を読む側の私たちにも、以前、気にも留めなかった御言葉が、ある日、重要な意味を持って語りかけてくることもあれば、あれほど好きだった御言葉の箇所が、今読むと、ごく普通に読み過ごしてしまったりとか、やはり、その時々に必要な言葉というものがあるのでしょう。
この詩篇の作者(編集者?)も、きっと、このような形で、感謝の賛美と祈願の祈りとを組み合わせずにはいられない状況だったのかもしれません。
いずれにせよ、どういう経緯であれ、こうして詩篇108篇として形として残っている事に、少なからず、神の御霊の働きと、意図があったということを覚え、感謝と祈りの心を持って、この詩篇を味わいたいものです。