エレミヤ50章21~46節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ50:21 メラタイムの地に向かえ。そこに向かって攻め上れ。ペコドの住民に向かえ。彼らを剣にかけ、残ったものを滅ぼし尽くせと主は言われる。わたしがお前に命じたとおりすべて行え。
50:22 その地に戦いのとどろきと大きな破壊が起こる。
50:23 全世界を砕いた槌が、今や折られ砕かれる。バビロンは諸国民の間で恐怖の的となる。
50:24 バビロンよ、わたしはお前に罠を仕掛けお前は捕らえられた。お前は知らずにいたが見つけられ、捕らえられた。お前が主と争ったからだ。
50:25 主は倉を開いて怒りの武器を取り出された。これこそ、カルデア人の国で行われる万軍の主なる神の御業だ。
50:26 バビロンに向かって四方から攻めよ。その穀物の倉を開いて、山のように積み上げバビロンを滅ぼし尽くせ。何も残してはならない。
50:27 バビロンの雄牛を残らず剣にかけよ。彼らを屠り場に追い込め。彼らは災いだ。彼らの日、彼らの罰せられる時が来た。
50:28 バビロンの国を逃れ脱出した人々の声がする。彼らはシオンで我々の神、主の復讐を告げる主の神殿の復讐を。
50:29 バビロンに向かって、射手を呼び集めよすべて弓を射る者を。バビロンを囲んで陣を敷けひとりも逃してはならない。その仕業に従って報復し行ったすべてのことに従って、仕返しするがよい。彼女は主に向かいイスラエルの聖なる方に向かって傲慢にふるまったからだ。
50:30 それゆえ、その日には、バビロンの若者たちは広場で倒れ、兵士は皆、息絶えて静かになる、と主は言われる。
50:31 傲慢な者よ。見よ、わたしはお前に立ち向かうと万軍の主なる神は言われる。お前の日、わたしがお前を罰する時が来た。
50:32 傲慢な者はよろめき倒れ助け起こす者はいない。わたしはその町々に火をつけ火は周囲のすべてのものをなめ尽くす。
50:33 万軍の主はこう言われる。イスラエルの民は虐げられているユダの民も共に。彼らをとりこにしている者たちは皆彼らを抑えつけ、解き放つことを拒んでいる。
50:34 彼らを贖われる方は強い。その御名は万軍の主。主は必ず彼らの訴えを取り上げバビロンの国を揺り動かしその住民を乱される。
50:35 剣がカルデア人の上に臨む、と主は言われる。バビロンの住民の上にその貴族、知者たちの上に。
50:36 剣が大言壮語する者らに臨み彼らは笑いものになる。剣が勇士たちに臨み、彼らは砕かれる。
50:37 剣が軍馬と戦車にまた、バビロンの雑多な傭兵に臨み彼らは女のように弱くなる。剣が宝の倉に臨み、倉はかすめられる。
50:38 日照りがバビロンの水に臨み、水は干上がる。バビロンは偶像の国でおぞましいものに狂っているからだ。
50:39 それゆえ、ハイエナがジャッカルと共に住み駝鳥がそこに住み着く。そこに住む者は、もはや永久にない。宿る者も、世々にわたってないであろう。
50:40 神がソドム、ゴモラと近隣の町々を覆されたときのように、と主は言われる。そこには、人ひとり住まず人が宿ることはなくなるであろう。
50:41 見よ、一つの民が北から来る。大いなる国、多くの王が地の果てから奮い立って来る。
50:42 彼らは弓と剣を取り、残酷で容赦しない。海のとどろくような声をあげ、馬を駆り戦いに備えて武装している娘バビロンよ、お前に向かって。
50:43 バビロンの王が、その知らせを聞くと彼の手の力は抜けた。彼は苦しみにとらえられ産婦のようにもだえる。
50:44 見よ、獅子がヨルダンの森から緑の牧場に躍り出るようにわたしはバビロンを襲い一瞬のうちに彼らを追い散らしわたしが選んだ者にそこを守らせる。誰か、わたしのような者がいるだろうか。誰が、わたしを召喚するだろうか。羊飼いのうち誰が、わたしに挑むだろうか。
50:45 それゆえ、主がバビロンに対して練られた計画カルデア人の地に対して定められた企てを聞け。羊の群れの幼いものまで引きずられて行く。牧場はこのことのゆえに恐れおののく。
50:46 バビロンが占領される物音で大地は揺れ動き叫びの声は諸国民の間に聞こえる。

かつてイスラエルを懲らしめるために、主の道具として用いられたバビロンもまた、その傲慢さの故に、神の裁きを受ける事になる。
それは、単なる傲慢さだけではなく、偶像礼拝でもあったということが述べられている。
もちろん、バビロンの民の中にも、偶像と呼ばれるような神々があったであろう。
しかし、それよりも、彼らの国家としての強大さや、軍隊の強力さなどを誇る思いがあったのであろう。
具体的な宗教としてでなくても、偶像崇拝の危険性が増大していたのであろうと思われる。
国家はもちろんのこと、組織、会社、立場、あらゆる事柄が成功を収めていくところで、偶像になる危険性がある。
成功していなくても、それを追い求めている段階でも、求める姿が偶像であったりするのだろう。
私たちは、成功のために全てを犠牲にしてのし上がっていくのではない。
全ては主のためである。
主が喜ばれる事、牛が望まれることを追い求めていきたいものである。