エレミヤ32:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレツァルの第十八年のことであった。
32:2 そのとき、バビロンの王の軍隊がエルサレムを包囲していた。預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた。
32:3 ユダの王ゼデキヤが、「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と言って、彼を拘留したのである。エレミヤの預言はこうである。「主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。
32:4 ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。
32:5 ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。」
預言者エレミヤの預言は、ユダの王ゼデキヤにとって、好ましいものではなかった。
「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」
との問いも、その理由を聞こうとしているのではない。
「そんな預言を語るな」という意味であろう。
あるいは、「お前はなぜ同胞イスラエルにとって災いとなるようなことばかり預言するのか。同胞を愛していないのか」と言いたいのかもしれない。
しかし、エレミヤは「愛している。愛しているが故に、悔い改めが必要なのだ」と言いたかったのではなかろうか。
いずれにせよ、エレミヤは、神様から示された言葉を、そのまま告げたのである。
勇気も必要だったであろう。
しかし、それが本当にイスラエルのためだと思っていたことに変わりは無い。
イスラエルを愛する気持ちは、誰より強かっただろう。
神の御言葉を語る者は、御言葉を聞く者を愛するが故に語る。
それはとても大切なこと。
己の地位や名誉のためなら、語らないことが一番。
でも語らなければならない。
愛するが故に。