エレミヤ20:1 主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
20:2 パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
20:3 翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
20:4 主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
20:5 わたしはこの都に蓄えられている物、労して得た物、高価な物、ユダの王たちの宝物をすべて敵の手に渡す。彼らはそれを奪い取り、バビロンへ運び去る。
20:6 パシュフルよ、お前は一族の者と共に、捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に。」
エレミヤは祭司パシュフルに対し「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる」と告げています。
なんとも恐ろしい呼び名でしょうか。
恐怖というのは、本当に耐え難いものです。
なぜならば、自分の身に迫りくるであろう試練や苦痛など、得体のしれないものであればあるほど、その恐怖感は大きなものとなりうるからであり、実際の苦難よりも恐ろしい場合もあるかもしれません。
もちろん、恐怖感にも様々な種類のものがあるのでしょうが、それが四方から迫りくるようなものであるとするならば、もはや、逃れる場所さえない状態であり、耐え難いものであったことでしょう。
得体のしれない、しかも、逃れる事のできない恐怖と言うとき、私たち自身にとってそれが何か考えてみると、死という出来事があげられるのではないでしょうか。
誰も経験した事のないもので、それがどんなに苦痛を伴うものであるのかわからず、得体の知れない恐怖感を放っていると言えます。なおかつ、誰もが必ず経験しなければならない恐ろしさ。
この死の問題に対する解決を持っているかどうかは、その後の人生に対して、大きな違いをもたらすことになるのでしょう。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とはイエス様の言葉。
死に対する解決をもたらす聖書の言葉に信頼して歩み続けていきたいものです。